浪人に (622) なるムハンマド

天使ガブリエルから啓示を受けるムハンマド
ヤスリブでイスラム共同体を組織したムハンマドは、630年にメッカを制圧する。
ムハンマドはイスラム教に改宗した者には寛大だったが、他宗教は厳しく弾圧した。そして、ビザンツ帝国への遠征を企てるが、このときは失敗に終わる。

632年には、メッカへの大巡礼を行い、イスラム教の五行(信仰告白、礼拝、断食、喜捨、巡礼)を定める。その直後、ムハンマドは病没する。
ムハンマドはイスラム教に改宗した者には寛大だったが、他宗教は厳しく弾圧した。そして、ビザンツ帝国への遠征を企てるが、このときは失敗に終わる。

632年には、メッカへの大巡礼を行い、イスラム教の五行(信仰告白、礼拝、断食、喜捨、巡礼)を定める。その直後、ムハンマドは病没する。
メディナ(マディーナ)付近付近の地図
イスラム教の特徴
- 一神教(アッラー)である。
- 教典「コーラン」はアラビア語で書かれている。
- 偶像崇拝を否定している。
- 専門の聖職者は存在しない。
- 政治や生活と密接に関わり合う。
イスラム世界の発展
この頃、西アジアでは226年に建国し、ホスロー1世統治下で最盛期を迎えていたササン朝ペルシアと東ローマ帝国(ビザンツ帝国)が争っており、両帝国国境の迂回ルートに位置するメッカの商人たちが中継貿易を独占し、繁栄していた。

最初は小さな共同体であったイスラム教を奉じる集団は、またたくまにアラビア半島を統一、642年のニハーヴァンドの戦いでササン朝を滅ぼし、北アフリ力からイベリア半島にまで勢力を広げた。
その間、政治体制としては、正統カリフ時代の内紛を経て、ムアーウィヤがウマイヤ朝を建て、世襲の王朝へと変貌を遂げている。
このとき、ムアーウィヤに反発し、アリーとその子孫のみをカリフとした勢力が、シーア派の原形である。

最初は小さな共同体であったイスラム教を奉じる集団は、またたくまにアラビア半島を統一、642年のニハーヴァンドの戦いでササン朝を滅ぼし、北アフリ力からイベリア半島にまで勢力を広げた。
その間、政治体制としては、正統カリフ時代の内紛を経て、ムアーウィヤがウマイヤ朝を建て、世襲の王朝へと変貌を遂げている。
このとき、ムアーウィヤに反発し、アリーとその子孫のみをカリフとした勢力が、シーア派の原形である。
聖地エルサレム
619年、ムハンマドは天使ガブリエルに導かれ、ユダヤ教徒キリスト教の聖地エルサレムへ飛び、ある岩の上から天へ昇り、アッラーの前に立ったと伝えられている。この伝承から、エルサレムはイスラム教の第三の聖地とされた。
なお、ムハンマド自身は生前、エルサレムを訪れておらず、メディアの自宅で死去した。
なお、ムハンマド自身は生前、エルサレムを訪れておらず、メディアの自宅で死去した。
参考書籍
キリスト教、イスラム教、仏教の成り立ちや教えの違いについて、豊富な図表を使ってわかりやすく解説している。仏教の信者数は世界第5位というのは意外だった。
この時代の世界
(この項おわり)
当時のアラブ世界は多神教が中心であったため、ムハンマドは迫害を受け、622年、交通の要衝であったヤスリブ(現在のメディナ、マディーナ)へ逃れる。これをヒジュラ(聖遷)と呼び、イスラム暦(太陰暦)の元年に定められている。