無用に (642) なったササン朝

ニハーヴァンド城
642年、イスラム軍はニハーヴァンド(現在のテヘラン南方)でササン朝ペルシアと戦い、これを破る。ササン朝ペルシアは、651年、ヤズデギルド3世が部下に殺害され、滅亡する。
ニハーヴァンド付近の地図
カーディシーヤの戦い

カーディシーヤの戦い
ホスロー2世が統治するササン朝ペルシアは、東ローマ帝国との戦いや王位継承権争い、洪水などで国力を消耗していた。
一方、ムハマンド亡き後の初期イスラーム共同体(ウンマ)は、指導者であるカリフを選び、共同体を統治していた。これを正統カリフ時代と呼び、共同体は周辺地域へ急拡大していた。
そんな中、637年、第2代カリフのウマルが率いるアラブ軍が、カーディシーヤの戦いでササン朝ペルシア軍に大勝した。
一方、ムハマンド亡き後の初期イスラーム共同体(ウンマ)は、指導者であるカリフを選び、共同体を統治していた。これを正統カリフ時代と呼び、共同体は周辺地域へ急拡大していた。
そんな中、637年、第2代カリフのウマルが率いるアラブ軍が、カーディシーヤの戦いでササン朝ペルシア軍に大勝した。
ちなみに、カーディシーヤは現在のイラクにある。
アラブの最初の勝利の地として、イラクのサダム・フセイン大統領は、そこに記念館を建設し、湾岸戦争時にはバグダードの新聞に「サッダームにカーディシーヤの勝利を」という論調があらわれ、フセインにはカーディシーヤというニックネームがつけられた。
アラブの最初の勝利の地として、イラクのサダム・フセイン大統領は、そこに記念館を建設し、湾岸戦争時にはバグダードの新聞に「サッダームにカーディシーヤの勝利を」という論調があらわれ、フセインにはカーディシーヤというニックネームがつけられた。
ササン朝ペルシアの滅亡
国王ヤズデギルド3世は東方のケルマーンに逃亡するが、部下に殺害され、ササン朝ペルシアは滅亡する。

ササン朝ペルシアの国教はゾロアスター教だったが、信徒たちはイスラム教に改宗するか、インドや中国へ流れていった。こうして、イランのイスラム化が完成する。
また、唐にネストリウス派キリスト教(景教)、マニ教、ゾロアスター教(祆教、拝火教)が伝わることになる。

ササン朝ペルシアの国教はゾロアスター教だったが、信徒たちはイスラム教に改宗するか、インドや中国へ流れていった。こうして、イランのイスラム化が完成する。
また、唐にネストリウス派キリスト教(景教)、マニ教、ゾロアスター教(祆教、拝火教)が伝わることになる。
この時代の世界
参考書籍
(この項おわり)