
604年、煬帝が父の文帝を暗殺して帝位に就くと、物資の豊かな杭州から揚子江、黄河を繋ぎ、政治・軍事の中心である北京にいたる全長1800キロの運河建設に着手する。常に100万人の民衆を土木工事に狩り出したうえ、皇帝は遊興にふけったため、民衆の反感を買い、618年に煬帝は暗殺され、隋はわずか38年で滅びることになる。

ちなみに、聖徳太子が小野妹子を派遣した第2回遣隋使は煬帝の時代のことである。

ちなみに、聖徳太子が小野妹子を派遣した第2回遣隋使は煬帝の時代のことである。
この時代の世界
(この項おわり)
文帝は中央集権的な律令制度を整備し、門閥貴族による世襲を排除するため、学科試験によって官僚を採用した。これは、後に科挙と呼ばれるようになり、清が滅亡する直前までの約1300年にわたって続くことになる。