応天門の炎上を描く『伴大納言絵詞』
866年(貞観8年)閏3月10日の夜、朝堂院の正門である応天門が焼失した。これをめぐって朝廷内で発生した一大疑獄事件を応天門の変と呼ぶ。大納言・伴善男が左大臣・源信を放火犯として告発したが、半年後、善男親子こそ真犯人だと密告された。
事件前の朝廷 - 藤原氏と伴氏の対立
858年(天安2年)、9歳の清和天皇が即位した。外祖父(母方の祖父)の藤原良房は、857年(斉衡4年)に道鏡以来およそ90年ぶりの太政大臣となっており、幼い天皇に代わって政治の実権を握っていた。ただし、天皇の代わりに政務を執る権限は、まだ制度として認められたものではなかった。

これに対し、大納言の伴善男は古代からの名門の出身である。伴氏は、823年(弘仁14年)に大伴親王が第53代・淳和天皇として即位した際、その諱(本名)を避けて大伴氏から改めた一族で、天孫降臨以来、皇室を守る役割を担ってきたと伝えられる。善男は830年(天長7年)に仁明天皇に近侍してから異例の出世を重ね、864年(貞観6年)に大納言まで上りつめた。伴氏から大納言が出たのは、730年(天平2年)の大伴旅人以来およそ130年ぶりだった。

同じく古代の名門である紀氏も、紀夏井が讃岐守として善政を敷き、民に慕われて任期を2年延長されるなど、なお存在感を保っていた。急速に力を伸ばす藤原北家と、伝統的な豪族との間で、政務の主導権をめぐる不満が高まっていた。これが応天門の変の背景である。
これに対し、大納言の伴善男は古代からの名門の出身である。伴氏は、823年(弘仁14年)に大伴親王が第53代・淳和天皇として即位した際、その諱(本名)を避けて大伴氏から改めた一族で、天孫降臨以来、皇室を守る役割を担ってきたと伝えられる。善男は830年(天長7年)に仁明天皇に近侍してから異例の出世を重ね、864年(貞観6年)に大納言まで上りつめた。伴氏から大納言が出たのは、730年(天平2年)の大伴旅人以来およそ130年ぶりだった。
同じく古代の名門である紀氏も、紀夏井が讃岐守として善政を敷き、民に慕われて任期を2年延長されるなど、なお存在感を保っていた。急速に力を伸ばす藤原北家と、伝統的な豪族との間で、政務の主導権をめぐる不満が高まっていた。これが応天門の変の背景である。
応天門の炎上と源信への告発
閏3月10日夜の応天門 (イメージ)
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866年(貞観8年)閏3月10日の夜、大内裏にある朝堂院の正門・応天門が、何者かの放火によって焼け落ちた。国家の儀式を行う中心の門が失われたことに朝廷は動揺し、盛んに加持祈祷が行われた。応天門は、かつて大伴氏が造営したと伝えられる門でもあった。
密告による逆転 - 真犯人は伴善男親子
朝廷に訴え出る大宅鷹取 (イメージ)
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この間、鷹取の娘が、善男の従者である生江恒山に殺されるという事件が起きている。鷹取が訴え出た背景には、この怨恨があったとみられる。

8月29日、伴中庸が左衛門府に拘禁され、生江恒山や伴清縄ら善男の従者も捕らえられて厳しく尋問された。その中で中庸が放火を自供する。政敵を陥れるための告発が、半年を経て告発した側へ跳ね返ったことになる。

ただし、真犯人が誰であったかについては当時から諸説あり、事件そのものが藤原氏による陰謀だったとする見方も根強い。主な史料は『日本三代実録』だが、勝者となった側の朝廷が編んだ記録であるため、書かれている内容をそのまま事実と断定することはできない。
8月29日、伴中庸が左衛門府に拘禁され、生江恒山や伴清縄ら善男の従者も捕らえられて厳しく尋問された。その中で中庸が放火を自供する。政敵を陥れるための告発が、半年を経て告発した側へ跳ね返ったことになる。
ただし、真犯人が誰であったかについては当時から諸説あり、事件そのものが藤原氏による陰謀だったとする見方も根強い。主な史料は『日本三代実録』だが、勝者となった側の朝廷が編んだ記録であるため、書かれている内容をそのまま事実と断定することはできない。
事件の経過
866年(貞観8年)の出来事を日付順に並べると、次のとおりである。
- 閏3月10日……応天門が炎上。伴善男が左大臣・源信を犯人と告発し、源信の邸が兵に囲まれる。藤原良房の弁護により源信は免罪となる。
- 8月3日……大宅鷹取が、真犯人は伴善男・中庸親子であると密告する。
- 8月7日……善男の取り調べ。善男は無罪を主張する。
- 8月18日……応天門の火災は山陵(天皇の墓)を穢したことへの譴責である、との判断が示される。
- 8月19日……清和天皇が藤原良房に、天下の政を摂行せよとの詔を下す。人臣(皇族以外)で初の摂政である。
- 8月29日……伴中庸が拘禁され、従者らとともに尋問を受ける。中庸が放火を自供する。
- 9月22日……太政官が伴善男らを放火の犯人と断罪。死罪から一等を減じて流罪と決まる。
事件の影響と帰結
第一の影響は、名門豪族の失脚である。事件に関与したとされた伴氏と紀氏の主要人物は、中央政界から一掃された。とくに紀夏井は、異母弟の紀豊城が共謀者として捕らえられたことに連座し、肥後守を解かれて土佐国へ流された。夏井自身は事件にまったく関わっていなかったと伝えられ、その処分を惜しむ声が記録に残る。天孫降臨以来、皇室の近衛としての役割を担ってきた大伴氏/伴氏は、こうして政治の表舞台から姿を消した。

第二の影響は、摂関政治の確立である。藤原良房は866年(貞観8年)8月19日、清和天皇から天下の政を摂行せよとの詔を受けた。皇族以外で初めて、自らの意思で政務を執る正式な摂政である。事件の処理を主導した良房の立場は、これによって制度の裏づけを得た。養子の藤原基経も中納言に特進している。

藤原北家による他氏排斥は、842年(承和9年)の承和の変で橘逸勢ら橘氏と伴氏を退けたのに続き、866年の応天門の変で伴氏・紀氏を退けたことで大きく前進した。その後、901年(延喜元年)の昌泰の変で菅原道真を、969年(安和2年)の安和の変で源高明を退けるまで続くが、摂関政治の基礎は、この866年に決定的に固まったといえる。

事件の3年前、862年(貞観4年)からの疫病流行を受けて、863年(貞観5年)には神泉苑で御霊会が行われている。864年(貞観6年)からの富士山の貞観大噴火、869年(貞観11年)の貞観地震と、この時期は大きな自然災害も続いた。災害と疫病、そして政変が重なる貞観年間は、平安時代の政治の形が大きく変わる時期であった。
第二の影響は、摂関政治の確立である。藤原良房は866年(貞観8年)8月19日、清和天皇から天下の政を摂行せよとの詔を受けた。皇族以外で初めて、自らの意思で政務を執る正式な摂政である。事件の処理を主導した良房の立場は、これによって制度の裏づけを得た。養子の藤原基経も中納言に特進している。
藤原北家による他氏排斥は、842年(承和9年)の承和の変で橘逸勢ら橘氏と伴氏を退けたのに続き、866年の応天門の変で伴氏・紀氏を退けたことで大きく前進した。その後、901年(延喜元年)の昌泰の変で菅原道真を、969年(安和2年)の安和の変で源高明を退けるまで続くが、摂関政治の基礎は、この866年に決定的に固まったといえる。
事件の3年前、862年(貞観4年)からの疫病流行を受けて、863年(貞観5年)には神泉苑で御霊会が行われている。864年(貞観6年)からの富士山の貞観大噴火、869年(貞観11年)の貞観地震と、この時期は大きな自然災害も続いた。災害と疫病、そして政変が重なる貞観年間は、平安時代の政治の形が大きく変わる時期であった。
事件を描いた『伴大納言絵詞』
参考書籍
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謎の平安前期―桓武天皇から『源氏物語』誕生までの200年 | ||
| 著者 | 榎村寛之 | ||
| 出版社 | 中央公論新社 | ||
| サイズ | 新書 | ||
| 発売日 | 2023年12月20日頃 | ||
| 価格 | 1,100円(税込) | ||
| ISBN | 9784121027832 | ||
参考サイト
- 西暦863年 - 御霊会がはじまる:ぱふぅ家のホームページ
- 西暦794年 - 平安京へ遷都:ぱふぅ家のホームページ
- 応天門の変:ジャパンナレッジ
- 応天門の変:コトバンク
- 応天門の変:ヒストリスト
- 応天門の変:刀剣ワールド
- 伴大納言絵巻:出光美術館
この時代の世界
(この項おわり)


