西暦905年 - 『古今和歌集』編纂

国風文化のはじまり
古今和歌集
和歌をしたためる (イメージ)
905年(延喜5年)、日本最初の勅撰和歌集『古今和歌集』が編纂され、第60代・醍醐天皇 (だいごてんのう) に奏上された。全20巻、歌数は1111首(重出歌1首を含む)に及ぶ。
撰者は、紀友則 (きのとものり) 、紀貫之 (きのつらゆき) 、凡河内躬恒 (おおしこうちのみつね) 、壬生忠岑 (みぶのただみね) の4人。天皇の命により国家の事業として編まれた最初の和歌集であり、その後500年以上続く勅撰和歌集の出発点となった。

目次

時代的背景 - 国風文化のはじまり

醍醐天皇の勅命
撰者4人に撰進を命じる醍醐天皇 (イメージ)
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『古今和歌集』は初の勅撰和歌集である。勅撰 (ちょくせん) とは、天皇の命によって国家の事業として編むという意味で、それまで『万葉集 (まんようしゅう) 』のような私撰の歌集はあっても、朝廷が公式に編んだ和歌集はなかった。905年(延喜5年)、醍醐天皇は紀友則、紀貫之、凡河内躬恒、壬生忠岑の4人に撰進を命じる。4人はいずれも官位の高くない中下級の官人であり、歌の技量によって抜擢されたことになる。
背景には、漢詩文を重んじる唐風文化から、日本語の表現を軸とする国風文化への移行がある。894年(寛平6年)、遣唐大使に任じられた菅原道真 (すがわらのみちざね) は、唐の衰退と航海の危険を理由に遣唐使の派遣中止を建議 (けんぎ) し、認められた。これ以後、遣唐使が送られることはなく、907年には唐そのものが滅びる。

ただし、遣唐使の停止によって大陸との交流が絶えたわけではない。商人による民間の交易は続き、書物や工芸品は日本へ入り続けた。近年の研究では「遣唐使の停止が国風文化を生んだ」という単純な図式は見直されており、9世紀を通じて取り込んだ唐の文化を長い時間をかけて消化 (しょうか) し、日本の風土や言葉に合う形へ作り替えていった結果と説明されることが多い。

もう一つの背景がかな文字の普及である。9世紀を通じて平仮名 (ひらがな) が整えられ、漢字を学ばない者でも日本語の音をそのまま書き記せるようになった。公の文章は漢文が原則であったが、和歌は平仮名で書かれることで、細かな心の動きや言葉の響きを自由に表せるようになる。漢詩に対して一段低く見られていた和歌の地位は、勅撰されたことによって公式に引き上げられた。

内容の特徴 - 仮名序と古今調

仮名序を執筆する紀貫之
平仮名で序文を書く紀貫之 (イメージ)
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巻頭には、紀貫之が平仮名で書いた序文仮名序が置かれる。「やまと歌は、人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける」という一文ではじまり、和歌は人の心から生まれ育つ言葉であると述べる。続けて歌の六つの型(六義 (りくぎ) )や、在原業平 (ありわらのなりひら) 、小野小町 (おののこまち) ら六歌仙 (ろっかせん) への批評を記す。日本で最初のまとまった歌論である。
巻末には、紀淑望 (きのよしもち) が漢文で書いた序文(真名序 (まなじょ) )が置かれる。奏上の日付は、仮名序が905年(延喜5年)4月18日、真名序が4月15日と食い違っており、その理由は分かっていない。また、905年は撰進を命じられた年であって、集としてまとまったのは913年(延喜13年)から914年(延喜14年)ごろとする説もある。撰者の一人・紀友則は、完成を待たずに没している。

歌風は古今調と呼ばれる。『万葉集』の素朴で力強い調子に対し、技巧を凝らした優美 (ゆうび) で理知的な表現が特徴である。江戸時代の賀茂真淵 (かものまぶち) は、『万葉集』の歌風を男性的な「益荒男振り (ますらおぶり) 」、『古今和歌集』の歌風を女性的な「手弱女振り (たおやめぶり) 」と呼んで対比した。

表現の技巧も高度である。一つの音に二つの意味を重ねる掛詞 (かけことば) 、関係の深い言葉を散りばめる縁語 (えんご) 、あるものを別のものになぞらえる見立 (みた) てなどが多用された。たとえば坂上是則 (さかのうえのこれのり) の「朝ぼらけ有明の月と見るまでに吉野の里に降れる白雪」は、明け方に降り積もった雪を月の光に見立てた歌である。

構成も緻密である。全20巻は部立 (ぶだて) と呼ばれる主題別の分類で組まれる。巻一・二が春歌、巻三が夏歌、巻四・五が秋歌、巻六が冬歌、巻七が賀歌 (がのうた) 、巻八が離別歌 (りべつのうた) 、巻九が羈旅歌 (きりょのうた) 、巻十が物名 (もののな) 、巻十一から十五が恋歌、巻十六が哀傷歌 (あいしょうか) 、巻十七・十八が雑歌 (ぞうのうた) 、巻十九が雑体 (ざってい) 、巻二十が大歌所御歌 (おおうたどころのおんうた) などである。

四季の歌は、春の霞 (かすみ) から冬の雪へと季節の移り変わりの順に並ぶ。恋の歌は、まだ会わないうちの思いにはじまり、逢瀬 (おうせ) 、心変わり、別れへと物語のように進む。一首ずつを味わうだけでなく、巻全体を通して読ませる作りになっている点が、それまでの歌集と大きく異なる。

後世に与えた影響

和歌の贈答
和歌を贈り合う平安貴族 (イメージ)
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第一の影響は、勅撰和歌集の伝統の確立である。『古今和歌集』を第一として、951年(天暦5年)の『後撰和歌集 (ごせんわかしゅう) 』、1007年(寛弘4年)ごろの『拾遺和歌集 (しゅういわかしゅう) 』と続き、1205年(元久2年)の『新古今和歌集 (しんこきんわかしゅう) 』までの8集を八代集と呼ぶ。以後1439年(永享11年)まで、21の勅撰和歌集が編まれた。
第二の影響は、和歌表現の標準化である。『古今和歌集』で選ばれた言葉や題材が正統な表現とされ、歌を詠む者の必須の教養となった。鎌倉時代初期の歌人・藤原俊成 (ふじわらのしゅんぜい) は「歌の本躰には、ただ古今集を仰ぎ信ずべき事なり」と述べている。中世には、師から弟子へ『古今和歌集』の解釈を秘伝として伝える古今伝授 (こきんでんじゅ) という制度も生まれた。

第三の影響は、文学作品への波及である。『枕草子 (まくらのそうし) 』では、古今集の歌を覚えていることが教養の証として描かれる。『源氏物語 (げんじものがたり) 』では、登場人物が古今集の歌を引用したり、その一部を取り込んで新しい歌を作る本歌取り (ほんかどり) によって意思を伝え合う。歌を知らなければ会話が成り立たない世界である。

第四の影響は、日本文学全体の基盤となったことである。四季を細かく分け、それぞれに定まった言葉を結びつける整理の仕方は、後の連歌 (れんが) や俳諧 (はいかい) における季語 (きご) のもとになった。松尾芭蕉 (まつおばしょう) の俳諧や、能楽 (のうがく) の詞章 (ししょう) にも、古今集に由来する言葉が数多く取り込まれている。

評価は時代によって揺れた。明治時代の正岡子規 (まさおかしき) は『歌よみに与ふる書』で「貫之は下手な歌よみにて古今集は下らぬ集にて有之候」と激しく批判し、素朴な『万葉集』を高く評価した。この見方はその後も長く影響したが、現在では、構成の緻密さと表現の技巧を備えた作品として『古今和歌集』の価値が改めて評価されている。

参考書籍

表紙 謎の平安前期―桓武天皇から『源氏物語』誕生までの200年
著者 榎村寛之
出版社 中央公論新社
サイズ 新書
発売日 2023年12月20日頃
価格 1,100円(税込)
ISBN 9784121027832

参考サイト

この時代の世界

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