インダス河畔の戦い(イメージ)
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中央アジアの大国ホラズム・シャー朝は、1219年(承久元年)、チンギス・ハン率いるモンゴル帝国の侵攻を受ける。オトラル、ブハラ、サマルカンドといった主要都市が次々と陥落し、王朝は事実上崩壊した。国王の子ジャラールッディーン・メングベルディーはカーブル近郊のパルワーンの戦いでモンゴル軍を破るが、内部対立で勝利を活かせず、1221年(承久3年)11月24日、インダス川で本隊に追い詰められる。彼は単騎で川に飛び込み対岸のインドへ逃れたが、これによりホラズム・シャー朝は事実上滅亡した。
ホラズム侵攻
チンギス・ハン
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13世紀初頭、中央アジアにはチンギス・ハン率いる新興のモンゴル国と、アラーウッディーン・ムハンマドが治める大国ホラズム・シャー朝が並び立っていた。1218年、モンゴルの使節団と隊商が国境の町オトラルで総督イナルチュクに殺害される事件が起こる。これを契機に、チンギス・ハンは1219年末、15万とも20万ともいわれる大軍を率いてホラズム遠征に乗り出した。
アラーウッディーン・ムハンマド
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父の死後、王子ジャラールッディーン・メングベルディーがスルタンを継ぐが、1221年4月には旧都ウルゲンチも陥落し、住民は虐殺される。ジャラールッディーンはホラーサーン地方を経てアフガニスタンのガズナ(ガズニー)へ落ち延び、なおもモンゴル軍への抵抗を続けることになる。
パルワーンの戦い
ジャラールッディーン・メングベルディー
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ガズナに入ったジャラールッディーンは、残存兵を糾合し、6万とも7万ともいわれる騎兵を率いて1221年春、カーブル近郊のパルワーンへ進軍した。ホラズム軍がモンゴル軍の先鋒1000騎を撃破すると、チンギス・ハンは将軍シギ・クトクに3万の兵を与えて討伐に向かわせた。文官出身のシギ・クトクは策を尽くすが、パルワーンの戦いでホラズム軍に敗れる。これはチンギス・カンの西征において、モンゴル軍が唯一喫した敗北であった。
だが勝利したホラズム軍の内部では、戦利品の馬の分配をめぐって将軍サイフッディーン・アグラークが離反し、軍はたちまち瓦解してしまう。さらにチンギス・ハン自らが報復のため本隊を率いて南下してきたため、ジャラールッディーンはこの勝利を活かせないまま、インド方面への退却を余儀なくされた。
インダス河畔の戦い
チンギス・ハンの追撃を知ったジャラールッディーンはガズナを放棄し、数千人のペルシア避難民を伴ってインダス川を目指す。しかし川を渡り切る前にモンゴル軍本隊が追いつき、インダス河畔の戦いが始まった。ジャラールッディーンは川岸に軍の大半を配置して避難民を守ろうとしたが、チンギス・ハンは主力を迂回させて挟撃し、1221年11月24日、ホラズム軍の両翼は壊滅した。

包囲を悟ったジャラールッディーンは、馬に乗ったまま単身インダス川へ飛び込み、対岸のインドへ泳ぎ渡って逃れた。後を追った兵の多くはモンゴル軍の矢に射られ、川面が血で赤く染まったと伝えられる。この壮絶な脱出劇を見たチンギス・ハンは彼の勇猛さを讃え、「わが子らもかくあるべし」と述べたという逸話が残る。この戦いをもってホラズム・シャー朝は事実上滅亡した。

ジャラールッディーンはインドで3年間放浪した後にペルシアへ戻り、なおもモンゴル帝国への抵抗を試みたが、1231年頃、追っ手を逃れる途上で落命したと伝えられる。以後、ホラズム・シャー朝の王統は絶えた。
包囲を悟ったジャラールッディーンは、馬に乗ったまま単身インダス川へ飛び込み、対岸のインドへ泳ぎ渡って逃れた。後を追った兵の多くはモンゴル軍の矢に射られ、川面が血で赤く染まったと伝えられる。この壮絶な脱出劇を見たチンギス・ハンは彼の勇猛さを讃え、「わが子らもかくあるべし」と述べたという逸話が残る。この戦いをもってホラズム・シャー朝は事実上滅亡した。
ジャラールッディーンはインドで3年間放浪した後にペルシアへ戻り、なおもモンゴル帝国への抵抗を試みたが、1231年頃、追っ手を逃れる途上で落命したと伝えられる。以後、ホラズム・シャー朝の王統は絶えた。
イスラムから見たモンゴル軍
モンゴル軍に破壊されるサマルカンド
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モンゴル軍の遠征は、中央アジアやイランのイスラム世界に甚大な被害をもたらした。ブハラやサマルカンド、メルヴ、ニーシャープールといった大都市は破壊され、多くの住民が殺害されたとイスラーム側の史料は伝える。同時代を生きた歴史家イブン・アスィールは、この災厄を人類史上まれに見る惨事として書き残している。
一方、モンゴル支配下のイル・ハン国に仕えた歴史家ジュワイニーは『世界征服者史』の中で、ブハラを脱出した男が破壊の様子を問われ「彼らは来た、壊した、焼いた、殺した、奪った、去った」と答えたという簡潔な言葉を書き留めている。

もっとも近年の研究では、19世紀の東洋学者ドーソンの『モンゴル帝国史』が、原典史料以上に「破壊」と「虐殺」を強調して記した可能性が指摘されている。城壁の破却や課税のための人口調査を「町の壊滅」と混同した記述もあり、モンゴル軍による被害の実態は史書が伝えるほど極端ではなかったとも考えられている。
もっとも近年の研究では、19世紀の東洋学者ドーソンの『モンゴル帝国史』が、原典史料以上に「破壊」と「虐殺」を強調して記した可能性が指摘されている。城壁の破却や課税のための人口調査を「町の壊滅」と混同した記述もあり、モンゴル軍による被害の実態は史書が伝えるほど極端ではなかったとも考えられている。
参考書籍
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天幕のジャードゥーガル 第1巻 | ||
| 著者 | トマトスープ | ||
| 出版社 | 秋田書店 | ||
| サイズ | コミック | ||
| 発売日 | 2022年08月16日 | ||
| 価格 | 880円(税込) | ||
| ISBN | 9784253264464 | ||
| 後宮では賢さこそが美しさ。13世紀、地上最強の大帝国「モンゴル帝国」の捕虜となり、後宮に仕えることになった女・ファーティマは、当時世界最高レベルの医療技術や科学知識を誇るイランの出身。その知識と知恵を持ち、自分の才能を発揮できる世界を求めていたファーティマは、第2代皇帝・オゴタイの第6夫人でモンゴル帝国に複雑な思いを抱く女・ドレゲネと出会う──。 歴史マンガの麒麟児・トマトスープが紡ぐ、大帝国を揺るがす女ふたりのモンゴル後宮譚! | |||
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チンギス・カンとモンゴル帝国 | ||
| 著者 | ジャン・ポール・ルー/田辺希久子 | ||
| 出版社 | 創元社 | ||
| サイズ | 全集・双書 | ||
| 発売日 | 2003年10月 | ||
| 価格 | 1,540円(税込) | ||
| ISBN | 9784422211718 | ||
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モンゴル帝国の興亡〈上〉軍事拡大の時代 | ||
| 著者 | 杉山 正明 | ||
| 出版社 | 講談社 | ||
| サイズ | 新書 | ||
| 発売日 | 1996年05月20日頃 | ||
| 価格 | 946円(税込) | ||
| ISBN | 9784061493063 | ||
この時代の世界
(この項おわり)

