西暦1241年 - ワールシュタットの戦い

モンゴル帝国がハンガリー王国へ侵攻
ワールシュタットの戦い
モンゴル帝国の第2代皇帝オゴタイの統治下、1241年、バトゥがハンガリー王国へ侵攻する。

4月9日、モンゴル軍は、レグニツァにおいてヘンリク2世が中心となったドイツ=ポーランド連合軍と衝突する。世界的にはレグニツァの戦いと呼ばれる。
ドイツ・ポーランド連合軍はホスピタル騎士団、テンプル騎士団、ドイツ騎士団から騎士を徴用し、民兵を含めて2万5千人程度の戦力だったと考えられている。これに対して、モンゴル軍は約2万人程度だった。このような兵力差があるにも関わらず、モンゴル軍は軽装の騎兵を中心とした集団戦法を取り、重装備の騎士の一騎打ち戦術をとるイツ=ポーランド連合軍を翻弄した。その日のうちにヘンリク2世は戦死し、モンゴル軍は大勝した。

モンゴル軍は討ち取った敵兵の耳を切り取り集めたが、これがキリスト教世界を恐怖させた。
1245年、ローマ教皇インノケンティウス4世は神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世を弾劾する第1リヨン公会議を開催するが、あわせてモンゴル帝国対策として、プラノ・カルピニをバトゥのもとへ派遣することが決まる。
の命令を受けて、東欧に勢力を拡大していたモンゴル帝国のバトゥの元に派遣される
1246年4月、バトゥと会見したカルピニは、その足でモンゴル帝国に入り、7月、グユクの即位式に参列した。
グユクからローマ教皇に宛てた親書を携え、1247年に帰国。ローマ教皇庁に報告書『モンゴル人の歴史』(われらがタルタル人と呼びたるところのモンゴル人の歴史)を提出する。

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