
フビライ
1271年、フビライは首都をカラコルムから大都(現在の北京)に移し、国号も中国風に元とあらためた。
1279年、フビライは南宋を滅ぼし中国を統一する。

モンゴル帝国は海の交易ルートも手に入れ、東西貿易が盛んになった。そして、重くかさばる銅銭の代わりに、銀との交換を担保する紙幣「交鈔」を発行した。
また、ウイグル商人やイスラム商人にヨーロッパ商人が加わりオルトクが組織された。王侯貴族や大商人がオルトクに出資し、商品を仕入れ、それを販売した利益が出資額に応じて配分されるという、現代の会社の原型ができた。

フビライは、1274年の文永の役、1281年の弘安の役の二度にわたり日本へ遠征するが、いずれも失敗した。

フビライは、1275年に来訪したイタリアの商人マルコ・ポーロを気に入り、国内の使節に起用するなど20年以上にわたり元に滞在させた。イタリアに帰国後、マルコ・ポーロは「東方見聞録」を出版することになる。

このころ、陸海に交通網がはりめぐらされて、ユーラシアははじめてひとつの世界となった。
東西の時間的距離が狭まり、外交が密になって、政治経済が相互に影響するようになる。
マルコ・ポーロ以外にもカルピニ、ソーマなど、広く世界を旅する人物も現れた。この状況をパクス・モンゴリカという。
1279年、フビライは南宋を滅ぼし中国を統一する。

モンゴル帝国は海の交易ルートも手に入れ、東西貿易が盛んになった。そして、重くかさばる銅銭の代わりに、銀との交換を担保する紙幣「交鈔」を発行した。
また、ウイグル商人やイスラム商人にヨーロッパ商人が加わりオルトクが組織された。王侯貴族や大商人がオルトクに出資し、商品を仕入れ、それを販売した利益が出資額に応じて配分されるという、現代の会社の原型ができた。

フビライは、1274年の文永の役、1281年の弘安の役の二度にわたり日本へ遠征するが、いずれも失敗した。

フビライは、1275年に来訪したイタリアの商人マルコ・ポーロを気に入り、国内の使節に起用するなど20年以上にわたり元に滞在させた。イタリアに帰国後、マルコ・ポーロは「東方見聞録」を出版することになる。

このころ、陸海に交通網がはりめぐらされて、ユーラシアははじめてひとつの世界となった。
東西の時間的距離が狭まり、外交が密になって、政治経済が相互に影響するようになる。
マルコ・ポーロ以外にもカルピニ、ソーマなど、広く世界を旅する人物も現れた。この状況をパクス・モンゴリカという。
この時代の世界
(この項おわり)
チンギス・ハンの孫のフビライが第5代皇帝に就く頃には、継承権をめぐるハン国同士の内紛が激しくなり、フビライが支配する宗家から完全に独立する。