明治元年9月8日は西暦1868年9月8日ではない

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福沢諭吉の『改暦辨』
福沢諭吉の『改暦辨』
明治天皇が即位し、元号が慶応から明治に切り替わったのは、慶応4年(明治元年)9月8日のことである。この日は西暦1868年9月8日ではなく、1868年10月23日である。なぜ月日が異なるのか、また1月1日という切りがいい日付で改暦しなかったのか――。

明治の改暦

明治政府は、明治5年11月9日に太政官布告第337号「太陰暦ヲ廃シ太陽暦ヲ行フ附詔書」を発布し、その年の12月2日をもって旧暦を廃止し、新暦に切り替えることを宣言した。つまり、明治5年12月2日の翌日は明治6年1月1日(1873年1月1日)となり、1ヶ月もカレンダーが短くなったのである。
なぜ月日まで変わってしまったかというと、旧暦(天保暦)は月と太陽の運行にもとづいて月日を決める太陰太陽暦だったのに対し、新暦(グレゴリオ暦)は太陽の運行だけをみる太陽暦であったためだ。
天保暦の詳しい仕組みは「PHPで万年カレンダーを作る」に記したが、太陽の運行にもとづく二十四節気から暦を作り出すところは太陽暦なのだが、月の運行である朔日と中気を比較して月の名前と閏月の要否を決定していくという太陰太陽暦であるため、月日が純粋な太陽暦とズレてくる。しかも、布告が切り替えのわずか1ヶ月前だったことから、当時の社会を大きく混乱させた。
なお、皇紀はグレゴリオ暦の年に600を加算しただけなので、このような月日のズレは起きない。

江戸時代以前の改暦

じつは天保暦が用いられたのは天保15年1月1日(1844年2月18日)からで、30年弱しか利用されなかった。それ以前は、寛政暦が用いられており、天保14年12月29日の翌日が天保15年1月1日となり、月日のズレは1日で済んだ。
寛政暦も46年間しか使われておらず、寛政9年12月30日(1798年2月16日)までは宝暦暦だった。

江戸時代以前の改暦を下表に示す。宣明暦を除き、頻繁に改暦が行われたことがわかるだろう。当時の文書は元号で記録されていたから、改暦の度に月日がズレていく。西暦から遡るときには注意が必要だ。
開始 終了
元号 グレゴリオ暦 元号 グレゴリオ暦
天保暦 天保15年1月1日 1844年2月18日 明治5年12月2日 1872年12月31日
寛政暦 寛政10年1月1日 1798年2月16日 天保14年12月29日 1844年2月17日
宝暦暦 宝暦5年1月1日 1755年2月11日 寛政9年12月30日 1798年2月16日
貞享暦 貞享2年1月1日 1685年2月4日 宝暦4年12月30日 1755年2月10日
宣明暦 貞観4年1月1日 862年2月3日 貞享元年12月30日 1685年2月3日
五紀暦 天安2年(858年)から貞観3年(861年)まで、大衍暦と併用された。
大衍暦 天平宝字8年頃 764年頃 貞観3年頃 861年頃
儀鳳暦 持統天皇4年頃 690年頃 天平宝字8年頃 764年頃
元嘉暦 推古天皇10年頃 692年頃 天平宝字8年天平宝字8年 764年頃
(※)現在、公文書の日付を元号で記録しなければならないとする法令は存在しない。西暦を用いないのは、旧暦の慣習がそのまま残っているためだと思われる。

海外の暦と改暦

海外の暦はどうだろうか――まず欧米から見ていこう。
現在世界標準となっているグレゴリオ暦は、ローマ教皇グレゴリウス13世が改暦を行ったことからその名が付いた。1582年2月24日に発布され、イタリア(教皇領)、スペイン(ポルトガルを含む)、ポーランド王国で、1582年10月4日(木曜日)の翌日が10月15日(金曜日)になった。
それまでの年月日は、紀元前46年に古代ローマのカエサルによって制定されたにユリウス暦によるものだった。グレゴリオ暦もユリウス暦も太陽暦だが、うるう日の設定が異なり、1600年以上使われるうちに10日あまりズレてしまった。それでも明治改暦よりズレは小さかった。

ところが厄介なことに、ヨーロッパ各国でグレゴリオ暦への改暦時期が異なる。
カトリック教国は教皇領とほぼ同時期に改暦したのだが、これより少し前の1517年にルターが95ヶ条の論題を掲げたように、プロテスタント諸国はカトリックが先導する改暦に、文字通り抵抗した。これは、復活祭の日付をカトリック暦で決めることを嫌ったためと言われており、一番早いドイツ諸国でも1699年、イギリスにいたっては1752年になってようやくグレゴリオ暦を導入した。独自の暦を使用していたスウェーデンは1753年にグレゴリオ暦を導入し、プロテスタント諸国にグレゴリオ暦が行き渡るまで230年以上の時間が必要だった。
正教会ではさらに時間を要し、ロシアはソビエト政権が誕生した1918年までユリウス暦を用いていた。

イスラム諸国では、ムハンマド(マホメット)がメッカからメディナへヒジュラ(聖遷)した622年7月16日を元年1月1日としてカウントするヒジュラ暦を用いている。ヒジュラ暦は月の満ち欠けに基づく純粋な太陰暦で、しかも新月ではなく細い三日月の日を月の第1日とする暦であるため、ユリウス暦やグレゴリオ暦とのズレが非常に大きい。
このため、ヒジュラ暦は祭礼にとどめ、農業や財務会計、貿易などにはグレゴリオ暦を用いている国や地域もある。たとえばサウジアラビアは2016年から公式にグレゴリオ暦を採用するなど、イスラム諸国がすべてヒジュラ暦を利用しているわけではない。
詳しくは「PHPでヒジュラ暦付きカレンダーを作る」をご覧にいただきたい。

この他、たとえばタイ王国のように独自の暦から1941年にグレゴリオ暦に切り替えた国もあり、古い文書の記録日を西暦に換算するときには注意が必要だ。

参考サイト

(この項おわり)
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