
マルティン・ルター (ルーカス・クラナッハ作

レオ10世
当初、教皇側は穏便に事態を収束させようと考えていたが、ルターの主張は多くの民衆の支持を得て、ついに教皇権までを否定するようになる。
1520年12月、レオ10世はルターに自説の撤回を呼びかけるが、ルターはこれを拒絶し、翌1521年1月3日に破門される。
1520年12月、レオ10世はルターに自説の撤回を呼びかけるが、ルターはこれを拒絶し、翌1521年1月3日に破門される。

ワルトブルグ城
カトリック教会から破門されたルターは、ザクセン公フリードリヒのワルトブルグ城にかくまわれる。ここでルターは聖書をドイツ語に翻訳し、聖書によりどころを求める新しいキリスト教(プロテスタント)を創始した。

ヘンリ8世 (ハンス・ホルバイン・ザ・ヤング作)
ルターは当初、旧約聖書の預言がイエスを指し示していることをユダヤ人に説き、キリスト教に改宗することを求めた。
しかし、これが難しいとわかると、1543年、『ユダヤ人と彼らのうそについて』を出版し、手のひらを返したかのように、ユダヤ人の旧約聖書解釈は間違っているという批判を展開。ユダヤ人を「下劣な偶像崇拝者」などと述べた。
後年、ナチス・ドイツはユダヤ人弾圧を進めるにあたり、これらルターの著作を引用した。
しかし、これが難しいとわかると、1543年、『ユダヤ人と彼らのうそについて』を出版し、手のひらを返したかのように、ユダヤ人の旧約聖書解釈は間違っているという批判を展開。ユダヤ人を「下劣な偶像崇拝者」などと述べた。
後年、ナチス・ドイツはユダヤ人弾圧を進めるにあたり、これらルターの著作を引用した。
この時代の世界
(この項おわり)
ドイツの神学者のマルティン・ルターはこのやり方に反対し、1517年10月31日、ヴィッテンベルク協会の門扉に贖宥状の無効性を訴えた「95ヶ条の論題」を張り出す。ルターの主張は、信仰によってのみ人間は救済されるという内容である。