水郷佐原と伊能忠敬

2022年5月3日 撮影
小江戸さわら舟めぐり - 水郷佐原
小江戸さわら舟めぐり
佐原の町並み(千葉県香取市佐原)は、小野川沿いに、佐原が最も栄えていた江戸時代末期から昭和初期に建てられた木造町家建築、蔵造りの店舗建築、洋風建築などが並ぶ。この日は、山車が1台、お囃子を奏でながら巡幸していた。
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佐原駅
佐原駅
佐原駅 (さわらえき) (千葉県香取市佐原イ74)は、JR成田線の駅で、鹿島線の直通列車が乗り入れている。
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佐原駅
佐原駅
1898年(明治31年)2月に開業し、現在の駅舎は2011年(平成23年)2月に供用開始した2代目である。2015年(平成27年)に完成した駅前広場を含めて、佐原の町並みをイメージして和風でまとめられている。
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ジャージャー橋 - 水郷佐原
ジャージャー橋
江戸時代のはじめ、小野川をまたいで農業用水を通すため、大きな (とよ) が作られた。その樋の上に板を渡して樋橋 (といばし) となり、その両側からあふれた水が川に落ちる「じゃーじゃー」という音から、ジャージャー橋と呼ばれるようになった。観光用に30分間隔で水を流している。
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ジャージャー橋のたもとから、株式会社ぶれきめらが運行する遊覧船が発着する。この日は30分間隔で4隻が運航しており、4隻の定員は32名。40分ほど待つことに。
船が動き出すと、涼しい風が顔に当たり、じつに気持ちがいい。
小江戸さわら舟めぐり - 水郷佐原
小江戸さわら舟めぐり
佐原からは縄文中期から後期の貝塚が発見されている。大和朝廷が日本を統一する際、東の最前基地として香取神宮、鹿島神宮を重要視した。
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小江戸さわら舟めぐり - 水郷佐原
小江戸さわら舟めぐり
927年(延長5年)の「延喜式」神名帳に、この両社のみに「神宮」という名称を与え、優越した地位を与えた。
香取神宮は下総国一宮となり、国分氏が治めていた佐原はその門前町として賑わいをみせていた。
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小江戸さわら舟めぐり - 水郷佐原
小江戸さわら舟めぐり
江戸時代に入ると、根川水運の河港として年貢米の集散地になり、物資が集散する商業町へと発展した。国分氏の家臣だった伊能家や永沢家は、帰農して酒や醤油などの醸造業を興し、佐原の代表産業に育て上げた。
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小江戸さわら舟めぐり - 水郷佐原
小江戸さわら舟めぐり
小野川沿いと川に交差する香取街道に交差する忠敬橋周辺に、江戸末期から明治の古い商家がある。川沿いには町家の風景が、町の中央を走る街道沿いには土蔵造りの商家が並んでいる。
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小江戸さわら舟めぐり - 水郷佐原
小江戸さわら舟めぐり
そのほとんどが昔からの家業を引き継いで今も営業を続けている商家で、1996年(平成8年)に関東で初めて重要伝統的建造物群保存地区に指定された。
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小江戸さわら舟めぐり - 水郷佐原
小江戸さわら舟めぐり
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伊能忠敬旧宅 - 水郷佐原
伊能忠敬旧宅
ジャージャー橋のたもとに、伊能忠敬旧宅(千葉県香取市佐原イ1900-1)がある。忠敬が17歳から50歳まで30年余りを過ごした家で、国の史跡に指定されている。入場無料。
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伊能忠敬旧宅 - 水郷佐原
伊能忠敬旧宅
母屋は1793年(寛政5年)に忠敬自身が設計したものといわれている。
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伊能忠敬旧宅 - 水郷佐原
伊能忠敬旧宅
伊能忠敬 (いのうただたか) は1745年(延享2年)1月、現在の九十九里町の盟主の家に生まれた。幼名は三治郎。
前述の通り、国分氏の家臣だった伊能家は酒造を商うようになっていたが、1742年(寛保2年)、跡取りに恵まれずに当主の長由 (ながよし) が他界した。最初の婿が亡くなったため、次の婿捜しをしていたところ、土地改良工事の現場監督として活躍していた三治郎に白羽の矢が立てられた。その際、大学頭の林鳳谷から、忠敬という名をもらった。
1762年(宝暦12年)12月、忠敬とミチは結婚し、正式に伊能家を継いだ。
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伊能忠敬旧宅 - 水郷佐原
伊能忠敬旧宅
当時の佐原村は天領で、武士は1人も住んでおらず、村民の自治によって収められていた。なかでも経済力が大きく発言権があったのが永沢家と伊能家で、忠敬は両家の対立を収めたり、次第に村の経営に深く関わってゆくようになる。
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伊能忠敬旧宅 - 水郷佐原
伊能忠敬旧宅
1783年(天明3年)、浅間山の噴火などによって天明の大飢饉が発生し、佐原村でも不作が続くようになった。忠敬は貧民救済に積極的に取り組み、打ち壊しを防ぎ、餓死者を出すこともなかった。村が危機から脱すると、忠敬は蓄えていた米を江戸で売り払い、多額の利益を得た。

1794年(寛政6年)に忠敬は隠居し、翌1795年(寛政7年)に50歳になると、江戸へ行き、幕府の天文方 (てんもんがた) 高橋至時 (たかはし よしとき) に弟子入りし、暦学や天文学を学んだ。
写真は、測量地の緯度を求めるために北極星などの高度を観測するのに使った象限儀 (しょうげんぎ) である。
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伊能忠敬記念館 - 水郷佐原
伊能忠敬記念館
伊能忠敬旧宅と小野川を挟んで対岸に、伊能忠敬記念館がある。入場有料。
1797年(寛政9年)、至時は新しい暦である寛政暦を完成させるが、これに満足せず、より正確なものにするため、日本各地の緯度・経度を知ることが必要だと考えた。
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御用旗 - 伊能忠敬記念館
御用旗
当時、蝦夷地では帝政ロシアの圧力が高まっており、至時は蝦夷地の正確な地図を作ることを幕府に進言し、あわせて子午線一度の距離を求めようと目論んだ。この測量事業の責任者として忠敬が抜擢された。1800年(寛政12年)4月19日、忠敬は第一次測量の旅に出た。

測量隊が御用(国の仕事)であることを示すため、作業のときには御用旗 (ごようばた) を旗を立てた。
天体望遠鏡 - 伊能忠敬記念館
天体望遠鏡
収蔵品の一部が撮影可能になっていた。
写真は、全長2メートル25センチの天体望遠鏡。手先が器用だった魚屋の岩橋善兵衛が製作したもので、忠敬は日食や月食の観測に利用した。国宝。
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測食定分儀 - 伊能忠敬記念館
測食定分儀
測食定分儀 (そくしょくていぶんぎ) は、天体望遠鏡の接眼部に取り付け、日食や月食のかけ具合を観測するための道具。目を痛めないように、太陽観測用の遮光板(ゾンガラス)も使われていた。
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垂揺球儀 - 伊能忠敬記念館
垂揺球儀
垂揺球儀 (すいようきゅうぎ) は振り子時計の一種である。日食や月食の時刻を正確に記録するために、垂揺球儀が使われた。

1803年(享和3年)10月、測量を終えて江戸に戻った忠敬は、さっそく緯度1度の距離を計算した。その結果は113km、地球1周は約4万キロということになり、現在の値にほぼ近い精密なものであった。こうして忠敬は、1816年(文化13年)の第10次まで(第9次測量のみ不参加)日本全土を測量した。
忠敬は1818年(文化15年)4月13日に死去するが、その死は伏せられ、高橋至時の子である高橋景保 (たかはしかげやす) が中心になり日本全国図の作成作業が続けられる。
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伊能忠敬(佐原駅前) - 水郷佐原
伊能忠敬(佐原駅前)
宗谷周辺については、忠敬の弟子の間宮林蔵 (まみやりんぞう) が測量した。

1821年(文政4年)7月10日、ついに「大日本沿海輿地全図」が幕府若年寄に提出された。この功績により、忠敬には帯刀が許され、武士並の地位が与えられた。忠敬の死が公表されたのは、それから約2ヶ月後のことであった。
1828年(文政11年)、ドイツ人医師シーボルトが大日本沿海輿地全図を手に入れたことからシーボルト事件が起きる。
大日本沿海輿地全図は明治時代になっても使われ続けた。
千葉商船株式会社 - 水郷佐原
千葉商船株式会社
千葉商船株式会社(千葉県香取市佐原イ503番1)は1979年(昭和54年)10月の設立。香取街道と小野川の交差点である忠敬橋のたもとにあり、昭和初期の洋館をモデルに建てられた鉄筋コンクリート3階建てのビルである。
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水郷佐原
水郷佐原
佐原出身の有名人として、漫画家の長谷川裕一 (はせがわ ゆういち) (1961年生まれ)、その弟でアニメ脚本家の勝己 (かつみ) (1963年生まれ)、ゲームディレクターの岩田修平らがいる。
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水郷佐原
水郷佐原
特産品のお米は、千葉健一の生産高を誇る。
名物の芋アイスは、忠敬橋の近くの売店で買い求めることができる。
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水郷佐原
水郷佐原
小野川沿いのガス灯型の街灯には、切り絵のような飾り付けがなされており、1つ1つの絵柄が異なっている。

写真は、花札の「柳に小野道風」でお馴染みの、小野道風 (おの とうふう) とカエル。書道の大家である。
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開運橋 - 水郷佐原
開運橋
成田線に近い開運橋の欄干にある鯉をなでると、運が開けるという。
向かって右手にあるのが阿形。
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開運橋 - 水郷佐原
開運橋
左手には阿行がある。
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丸型ポスト(佐原駅前) - 水郷佐原
丸型ポスト(佐原駅前)
古い町並みにお馴染みの丸型ポスト――写真は佐原駅前のもの。
丸型ポスト(小野川沿い) - 水郷佐原
丸型ポスト(小野川沿い)
こちらは小野川沿いの丸型ポスト
ポケふた(佐原駅前) - 水郷佐原
ポケふた(佐原駅前)
佐原駅前のポケふた(ポケモン・マンホール)。伊能忠敬記念館の近くにもある。
ポケふた(佐原駅前) - 水郷佐原の大きな写真大きな写真
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交通アクセス

【鉄道】
  • JR成田線「佐原駅」より徒歩15分
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出発地の最寄駅:

目的地:忠敬橋
小江戸 佐原 関連

参考サイト

近隣の情報

(この項おわり)
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