西暦1582年 - グレゴリオ暦導入

まずはカトリック諸国から
グレゴリウス13世
グレゴリウス13世
1582年10月15日、イタリア(教皇領)、スペイン(ポルトガルを含む)、ポーランド王国のカトリック諸国でグレゴリオ暦(新暦,太陽暦)が導入された。1587年までにヨーロッパのカトリック諸国に導入されたが、プロテスタント諸国への導入は遅れ、最後のイギリスがグレゴリオ暦を導入したのは、改暦から1世紀以上経った1752年のことだった。
紀元前46年、古代ローマのカエサルによって制定されたにユリウス暦閏年 (うるうどし) の置き方が精密ではなく、16世紀後半の時点で、暦上の春分日と実際の春分日とのずれが10日にも及んだ。このため、復活祭の日付のずれが無視できなくなってきていた。過去の公会議で「春分の日を3月21日と定める」という決議がなされたことと、他の祭日とバッティングするため、復活祭の日をずらすことができなかったのだ。
そこで、ローマ・カトリック教会のトリエント公会議が教皇グレゴリウス13世に暦の改定を委託した。

改暦委員会が設けられ、ヨーロッパ中の学者に意見を求めた。このとき、コペルニクスは、太陽年の長さの精度は不十分であり、改暦は時期尚早である」と返答している。このため、グレゴリオ暦の理論にはコペルニクスの地動説は含まれていないが、プトレマイオスの天動説も取り入れられていない。コペルニクスがラテン語で紹介したアラビア天文学の月の運行の理論や算出した1年の値は参考にされている。

グレゴリオ暦は1582年2月24日に発布され、イタリア(教皇領)、スペイン(ポルトガルを含む)、ポーランド王国で、1582年10月4日(木曜日)の翌日が10月15日(金曜日)になった。
グレゴリオ暦は、1587年までにヨーロッパのカトリック諸国に導入された。

一方、プロテスタント諸国はカトリックの新暦を取り込むことには不本意であったが、さすがに復活祭の日がずれていくことを看過するわけにもいかず、1700年頃から順次導入が進んだ。最後のイギリスがグレゴリオ暦を導入したのは、改暦から1世紀以上経った1752年のことだった。

日本がグレゴリオ暦を採用するのは明治初頭のことで、1873年1月1日に当たる明治5年12月3日(旧暦)を明治6年1月1日(新暦)とした。明治維新後、西洋にならって月給制にしたところ、明治6年には閏月が挿入されるため給料を13回払わなければならず、財政難の中、大隈重信はグレゴリオ暦へ移行することで給料の支払いを減らすことに成功した。

グレゴリオ暦は、
  1. 4で割り切れる年は閏年
  2. ただし、100で割り切れる年は平年
  3. ただし、400で割り切れる年は閏年
というルールになっている。こうすることで、3200年で1日の誤差に収まる

ちなみに、1972年以降、地球の自転によるふらつきを補正するため、閏秒 (うるうびょう) というルールを設けている。最近では、2009年1月1日午前8時59分59秒(日本時間の)の次に午前8時59分60秒を挿入する閏秒が実施された。
ちなみに、Linuxは閏秒に対応しているが、Windowsは対応していない。

もっと迷惑なことに、前述のグレゴリオ暦のルールを組み込んでいないシステムが存在することだ。
2008年1月31日、3,200台あまりの公衆電話が利用できなくなった。これは閏年の計算を間違えていたためだ。同じ年、ウィルコムの携帯電話やNTTのセットトップボックスにも障害が起きた。次に閏年が来る2012年は大丈夫だろうか。

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参考サイト

(この項おわり)
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