|
夢の島にひっそりと佇む都立第五福竜丸展示館(東京都江東区夢の島 3-2)を訪れた。入場無料。月曜日は休館。
第五福竜丸(だいごふくりゅうまる)は、1947 年(昭和 22 年)に和歌山県で建造され、はじめはカツオ漁船として近海漁業に従事していたが、のちにマグロ漁船として改造され、遠洋漁業に出るようになった。 1954 年(昭和 29 年)3 月 1 日、マーシャル諸島近海において操業中、アメリカがビキニ環礁で行った水爆実験に遭遇し、降り注いだ放射性物質により被爆した。 第五福竜丸は、1967 年(昭和 42 年)、老朽化により廃船となり、使用可能な部品が抜き取られた後に東京都江東区夢の島の隣の第15 号埋立地に打ち捨てられた。このとき、東京都職員らによって再発見されると保存運動が起こり、1976 年(昭和 51 年)、現在の形で展示がはじまった。 そういえば、小学生の頃、ゴミ埋め立て(夢の島)とセットで第五福竜丸のことを学んだ記憶がある。 |
|
当時は、このような木造船で遠洋漁業を行っていたのである。 |
|
乗組員 23 名全員は被爆し、無線長だった久保山愛吉は 9 月 23 日に血清肝炎で死亡した。 第五福竜丸は遭難信号も発せず、自力で焼津漁港に帰港した。これは、実験海域での被爆の事実を隠蔽しようとする米軍に撃沈されることを恐れていたためであるともいわれていわれている。アメリカは現在も、第五福竜丸が水爆実験で被爆したという事実を認めていない。 死亡した久保山は「原水爆の被害者は、私を最後にしてほしい」という言葉を残している。 |
|
第五福竜丸はアメリカが設定した危険海域の外で操業していた。危険海域の範囲が狭かった背景には、アメリカが当初見積もった爆発規模 4~8 メガトンをはるかに超える、15 メガトンの爆発が起きたためとされる。 危険を感じた乗組員は海域からの脱出をはかろうとするが、延縄(はえなわ)の収容に時間がかかり、数時間にわたって放射性降下物(いわゆる死の灰)を浴び続ける結果になった。 展示されている死の灰は白く、広島の「黒い雨」とは対称的だ。 これは、放射能を帯びたサンゴが大気中に舞い上がったためである。 |
|
第五福竜丸が水揚げしたマグロなどの水産物は、3 月 15 日に築地市場へ入荷された。このマグロは多量の放射線反応を示したうえ、他の水産物にも値が付かなくなり、この日のセリは中止された。 築地市場では被爆水産物を場内の地中深くに埋めた。その目印に「原爆マグロ塚」を建てたという(現在は市場の外壁に記念プレートが掲げられている)。 |
|
第五福竜丸のエンジン部分は、廃船時に船体から切り離されて別の貨物船「第三千代川丸」で利用されていた。この貨物船は、1968 年(昭和 43 年)、三重県熊野灘沖で座礁、沈没した。 1996 年(平成 8 年)12 月、民間有志によって海底から引き揚げられ、展示館の脇に陳列されることになった。 第五福竜丸の被爆から 2 ヶ月半後の 5 月 16 日、日本全国で放射能雨が観測され大騒ぎになった。水爆で巻き上げられた放射能が日本にも到達したのである。 第五福竜丸の被爆をきっかけに製作された東宝の特撮映画「ゴジラ」が同じ年の 11 月 3 日に封切りとなり、大きな話題となった。 |
ビキニ環礁が世界遺産に |
|
|
2010 年 7 月 31 日、ユネスコはブラジリアで行われた世界遺産委員会で、ビキニ環礁など計15 か所を世界遺産として登録することを決めた。 自然遺産でなく文化遺産として登録されたもので、ユネスコは 1996 年には「広島平和記念碑」(原爆ドーム)を世界遺産登録しており、今回も核兵器の被害を後世に伝える「負の遺産」となった。 |
|
参考サイト |
|
交通アクセス |
|
【鉄道】
|
|
参考書籍 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
この付近でネットができる宿 |
|
|
|
(この項おわり)
|
|
|
|
|
2009年11月17日 作成/
2010年12月18日更新
Copyright by studio pahoo, (C)2010
(※)本ページはリンクフリーですが,複製・転載時にはご一報ください. ★本ページへのご意見・ご質問・お便りは,ここをクリックしてください. ☆ツイートする(公式ハッシュタグ #pahoo) |

