原爆ドーム

2006年7月24日撮影
広島原爆ドーム 原爆ドームは地上 3階(一部5階)で、テレビで見るような威圧感はない、こぢんまりとした建造物だ。
見るからに崩れ落ちそうな廃墟を、長年にわたる風化や地震から守り、よくもここまで持ちこたえさせたものだと感心する。
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交通アクセス

原爆ドームへのアクセスは、広島市電・原爆ドーム前が便利だ。
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20 年ほど前に一度訪れたことがあるのだが、ドーム部分の鉄骨は淡いピンク色で塗り直されており、内部から外壁を支える鉄柱が張り巡らされていた。
ただ煉瓦を積み重ねただけの原爆ドームを守るには、たいへんな労力と資金がいる。
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原爆ドームの設計者レツルと宮島

原爆ドームの前身である広島県産業奨励館を設計したのは、チェコ人の建築家 ヤン・レツル*である。
レツルは日本に高い関心をもっており、オリエンタルホテルや聖心女子学院校舎などを設計した後、広島県産業奨励館の設計に着手。1915 年(大正 4 年)に竣工した。翌1916 年に帰国し、1918 年に再来日。1925 年に 45 歳という若さで世を去った。
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レツルが設計した建物は、原爆ドームなど一部を除き、そのほとんどが震災や戦火で消失してしまった。その原因は建物の脆弱性にあったと考えられている。
原爆ドームは煉瓦を積み上げただけの脆い構造だ。地震の少ないチェコ出身のレツルにとって、耐震性という点まで配慮できなかったのだろう。
もし原爆による爆風が横から襲っていたら、原形をとどめないほどに崩壊してしまったと考えられている。戦後、二度にわたる補強・保存工事が行われたが、大変な苦労だったという。
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煉瓦造りと言いえば東京駅であるが、レツルは東京ステイション・ホテルの内装も担当したらしい。記録には「ドイツ人のレツケル」となっているが、レツルの誤記ではないかと考えられている。
この内装も現存しておらず、残念ながら確認する手立てはない。
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レツルは、奨励館を設計する前に、同じ広島県内の宮島ホテルを設計している。1952 年(昭和 27 年)に火災で焼失してしまったが、宮島(厳島)は、原爆ドームと同じ 1996 年(平成 8 年)に世界遺産に登録された。不思議な巡り合わせである。
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広島と長崎

1945 年(昭和 20 年)8 月 6 日午前 8 時 15 分、史上初の原子爆弾「リトルボーイ」が広島県産業奨励館の南東約 150 メートル地点の上空約 580 メートルで爆発した。建物は大破、全焼し、館内にいた約 30 人は即死であった。その廃墟は原爆ドームとして、現代に姿をとどめている。
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この 3 日後の 8 月 9 日に被爆した長崎では、必死の救命活動を続けた永井隆医師が「原子爆弾が浦上に落ちたのは大きな御摂理で、神の恵みであることに感謝を捧げねばならぬ」と弔辞を述べている。医学者でありキリスト者でもあった永井の悲壮感が漂う。
原爆症*は、現代医学をもってしても治療できない病である。
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1996 年(平成 8 年)、原爆ドームは世界遺産に登録されるが、翌年、前長崎市長の本島等*氏は、広島平和教育研究所が発行した『平和教育研究年報』に「広島よ、おごるなかれ 原爆ドームの世界遺産化に思う」という論文を寄せた。本島氏はこの中で「私は、この記事(原爆ドームが世界遺産に登録された記事)を新聞で見て日本のエゴが見えて悲しさと同時に腹が立った」と述べた。
本島氏は敬虔なクリスチャンとして知られているが、長島市長を務めていた 1988 年(昭和 63 年)、市議会本会議で「天皇に戦争責任はあると思う」と発言し、2 年後、右翼団体の男に狙撃され重傷を負ったのだった。
それにしても、同じ国内の、同じ被爆都市である広島と長崎で、ここまで違うものなのか――あらためて戦後処理の難しさを感じる。
太平洋戦争では多くの血が流れすぎた。
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広島原爆関連

核兵器の威力

歴史的に見て、戦争が外交の最終手段である以上、避けて通ることはできない。人類が感情を超えた“悟り”の境地に達することができない限り、戦争は無くならないだろう。
ゆえに、国民感情に訴えて平和を唱えることは、国民感情に訴えて太平洋戦争を突き進んだ当時と同じ方法論を踏襲しているに過ぎず、そのやり方はナンセンスと言わざるを得ない。
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しかし、戦争が外交手段である以上、核兵器の存在もまたナンセンスである。
広島原爆(リトルボーイ*)には約 50 キログラムのウラン 235 が搭載されており、このうち核分裂を起こしたのは 1 キログラム程度と推定されている。爆発で放出されたエネルギーは、TNT 火薬換算で15 キロトン(1 万 5 千トン)だ。東京大空襲(1945 年 3 月 10 日)では、TNT 火薬2 キロトン相当の焼夷弾が投下されたと推定されている。その 8 倍近いエネルギーが、東京の 10 分の 1 以下の面積に一気に放出された計算になる。
その結果、爆心地の温度は 3~4 千度に達し、音速を超える爆風を発生させ、その圧力は 1 平方メートルあたり 35 トンに及んだ。木造建築物は自己発火するか爆風で吹き飛ばされた。鉄筋建築であった産業奨励館(原爆ドーム)ですら、爆風がほぼ垂直から襲ってきたことと、窓が多く爆風が吹き抜けたことにより、辛うじて全壊を免れた。
15 キロトンで、この有様である。現代のピンポイント核兵器は 10 キロトン前後の破壊力といわれているから、本当にピンポイント攻撃できるのかどうか怪しい限りである。
さらに、冷戦時代に米ソが競って開発した核兵器は TNT 火薬で 1 メガトンを超える。水爆に至っては60 メガトンに達する。これは広島原爆の 4 千倍の威力であり、第二次世界大戦で使われたすべての火薬の 20 倍に達すると言われている。
こんなエネルギーが一気に解放されたら、全面降伏どころか、敵を殲滅させてしまう。
その国土も荒れ果ててしまうだろう。こんな兵器を使ったが最後、せっかく用意しておいた戦後のシナリオが灰燼に帰してしまうに違いない。戦争終結の手段としては使えないのだ。
こんな強力な兵器は手段として利用することができない。使うことができないのなら、戦争抑止力になるわけがない。つまり、核兵器の存在そのものがナンセンスなのである。
にもかかわらず核兵器を温存し続ける国があることは、ヒトがいかにナンセンスな存在であるかを証明している。

戦争と平和

さて、小学生向けの国語問題集や、社会人向けの漢字常識問題集を見ると、かならず「戦争」の反対語を問う問題がある――正答は「平和」である。
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これはナンセンスな問題と言わざるを得ない。
戦争は手段であり、平和は状態をあらわす言葉である。ヒトは戦争を始めることもできれば、終わらせることもできる。一方、平和はそういう性質のものではない。戦争が無くても、旱魃・飢饉・自然災害によって平和は乱される。ヒトは平和をコントロールすることができないのだ。
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このように性質の違う言葉を反対語として位置づけている出題者の論理的能力に疑問を抱くとともに、これを受け入れてしまっている自分たちの常識について一度、棚卸しておく必要がある。不良在庫は処分しておこう(笑)。

世界遺産への登録

1996 年(平成 8 年)、原爆ドームは世界遺産に登録された。その際、アメリカや中国から反対があった。
中国は「今回の広島の登録は、たとえ登録条件に当てはまるとしても、多くの人々の安全保障を脅かす恐れがある」と棄権。アメリカもまた棄権し、「ドームは反人道性の象徴ではあると思うが、世界遺産には似合わない」というコメントを残している。
戦勝国は戦勝国の想いがあるのだろう。
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世界遺産には文化遺産のカテゴリに登録されており、正式名称は「広島平和記念碑(原爆ドーム)」――英語名は "Hiroshima Peace Memorial (Genbaku Dome)"。原爆 の 2 文字がしっかりと登録されている。

国民保護計画と核兵器

2004 年 9 月に施行された国民保護法に基づく国民保護計画*を作るために広島市が設けた「核兵器攻撃被害想定専門部会」が 2007 年 10 月 31 日にまとめた報告書によると、1 メガトンの水爆が原爆ドーム付近の上空2400 メートルで爆発した場合、死者は 37 万 2000 人、負傷者は 46 万人に上ると推計している。
また、62 年前と同規模の原爆が上空で爆発した場合、直後の死者は 6 万 6000 人、負傷者は 20 万 5000 人。建物の多くが木造から鉄筋コンクリートに変わったため、初期の放射線や熱線は遮られ、倒壊による圧死なども減るとみられる。しかし、放射線被爆者は約 15 万 5000 人、白血病やがんを発症する人も約 1 万 3000 人に達すると推計した。
核被害を具体的に想定したのは全国初で、「核攻撃から市民を守るには核兵器の廃絶しかない」と結論づけている。

エノラ・ゲイ機長の死

2007 年 11 月 1 日、広島に原爆を投下した B29爆撃機「エノラ・ゲイ*」の機長だったポール・ティベッツ*が、米オハイオ州コロンバスの自宅で、老衰のため死去した。92 歳だった。エノラ・ゲイは、彼の母親エノラ・ゲイ・ティベッツからとったものだ。
アメリカの最も有名なパイロットであり、晩年になっても、「広島、長崎への原爆投下は戦争終結のために必要だった」、「今も全く後悔はない」と語っていた。しかし、原爆投下に批判的な人々の抗議活動を恐れて葬儀や墓石を希望せず、遺灰を海にまいて欲しいと言い残したという。
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思うに、祖国の英雄となったポール・ティベッツは、最後まで心の内を明かすことができなかったのではないだろうか。合掌。

参考書籍

参考サイト

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(この項おわり)
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