ブロンズ像の右手は空を指して原爆の脅威を、左手は水平に伸ばして地上の平和を、軽く閉じられたまぶたは原爆犠牲者の冥福を祈っていると言われている。
3日前に最初の原爆の被害を受けた広島の原爆ドームの無機質的な雰囲気とは正反対の、いかにもキリスト教の街らしいオブジェである。
3日前に最初の原爆の被害を受けた広島の原爆ドームの無機質的な雰囲気とは正反対の、いかにもキリスト教の街らしいオブジェである。
西望は戦後、東京に移り住み、1953年(昭和28年)には井の頭公園にアトリエを構えた。この像の原型は、井の頭自然文化園の彫刻園にあるとのこと。ぱふぅ家が吉祥寺にやってくる10年前には存命だったわけで、意外に身近な人物である。
平和祈念像のモデルは明らかにされていない。当時、アジアヘビー級王座を獲得したばかりのプロレスラー、力道山であるとする説(平和祈念像のモデルは力道山?)がある一方で、マッチョなイエス=キリストというイメージも捨てきれない。また、半眼の大仏様のようでもある。
祈念像を完成させた西望は、長崎の料亭「青柳」(長崎県長崎市丸山町7-21)に通うようになった。青柳の女将、山口睦子の顔立ちは、祈念像によく似ていたと言われている。
この日は噴水に虹がかかっていた。平和で何より。
平和の泉の近くには、爆心地に最も近い所にあった公共建造物である長崎刑務所浦上刑務支所の遺構がある。原爆の熱線と爆風で、受刑者、刑事被告人や職員ら134名が即死した。
長崎市全体では、死者73,884人、重軽傷者74,909人、全焼11,574戸という被害規模である。
- 長崎の原子爆弾被害に関する科学的データ(長崎大学医学部)
プルトニウムは自然界にほとんど存在しない放射性物質だが、原子炉の副産物として生産できることと、ウラン235に比べて臨界量が少なくて済むため、戦後も開発が続けられた。ただし、超臨界爆発を起こすには一工夫必要で、ファットマンではコンピュータ科学の父、ジョン・フォン・ノイマンらによって開発された爆縮レンズが搭載された。
広島と長崎
被爆都市となった長崎は、もちろん核兵器廃絶を願っていることに変わりはないのだが、3日前に被爆した広島とは雰囲気が違う。
これは、長崎医科大学(現・長崎大学医学部)で被爆者の救助にあたり、自らも原爆症で死亡した永井隆医師の影響が大きいのではないだろうか。
永井医師は放射線科医師であるため、外科医のように火傷を処置できたわけでもないし、内科医のように癌の治療ができたわけでもなかった。しかし、放射線の恐ろしさは熟知していた。
永井医師の必死の救命活動にも関わらず、日を追う毎に犠牲者は増えていった。彼は遺体を粗末にしないように、遺体を抱くように埋葬した。犠牲者の墓は、板片に名前を書いただけの粗末なものであったという。花を供えたくても、焼土となった長崎には供えるべき花がなかったのだ。
当時の、そして現代医療でも治療しようがない原爆症で死んでいった人々に対し、永井医師は「原子爆弾が浦上に落ちたのは大きな御摂理で、神の恵みであることに感謝を捧げねばならぬ」と弔辞を述べ、桜の苗木を千本植えた(「世界を感動させた日本の医師」鈴木厚/時空出版/2006年(平成18年)04月)。
これが、広島と長崎の違いとなってあらわれているのだろう。
1996年(平成8年)、広島原爆ドームは世界遺産に登録された。その翌年、前長崎市長の本島等氏は、広島平和教育研究所が発行した『平和教育研究年報』に「広島よ、おごるなかれ 原爆ドームの世界遺産化に思う」という論文を寄せた。本島氏はこの中で「私は、この記事(原爆ドームが世界遺産に登録された記事)を新聞で見て日本のエゴが見えて悲しさと同時に腹が立った」と述べた。
本島氏は敬虔なクリスチャンとして知られているが、長島市長を務めていた1988年(昭和63年)、市議会本会議で「天皇に戦争責任はあると思う」と発言し、2年後、右翼団体の男に狙撃され重傷を負ったのだった。
それにしても、同じ国内の、同じ被爆都市である広島と長崎で、ここまで違うものなのか――あらためて戦後処理の難しさを感じる。
太平洋戦争では多くの血が流れすぎた。
これは、長崎医科大学(現・長崎大学医学部)で被爆者の救助にあたり、自らも原爆症で死亡した永井隆医師の影響が大きいのではないだろうか。
永井医師は放射線科医師であるため、外科医のように火傷を処置できたわけでもないし、内科医のように癌の治療ができたわけでもなかった。しかし、放射線の恐ろしさは熟知していた。
永井医師の必死の救命活動にも関わらず、日を追う毎に犠牲者は増えていった。彼は遺体を粗末にしないように、遺体を抱くように埋葬した。犠牲者の墓は、板片に名前を書いただけの粗末なものであったという。花を供えたくても、焼土となった長崎には供えるべき花がなかったのだ。
当時の、そして現代医療でも治療しようがない原爆症で死んでいった人々に対し、永井医師は「原子爆弾が浦上に落ちたのは大きな御摂理で、神の恵みであることに感謝を捧げねばならぬ」と弔辞を述べ、桜の苗木を千本植えた(「世界を感動させた日本の医師」鈴木厚/時空出版/2006年(平成18年)04月)。
これが、広島と長崎の違いとなってあらわれているのだろう。
1996年(平成8年)、広島原爆ドームは世界遺産に登録された。その翌年、前長崎市長の本島等氏は、広島平和教育研究所が発行した『平和教育研究年報』に「広島よ、おごるなかれ 原爆ドームの世界遺産化に思う」という論文を寄せた。本島氏はこの中で「私は、この記事(原爆ドームが世界遺産に登録された記事)を新聞で見て日本のエゴが見えて悲しさと同時に腹が立った」と述べた。
本島氏は敬虔なクリスチャンとして知られているが、長島市長を務めていた1988年(昭和63年)、市議会本会議で「天皇に戦争責任はあると思う」と発言し、2年後、右翼団体の男に狙撃され重傷を負ったのだった。
それにしても、同じ国内の、同じ被爆都市である広島と長崎で、ここまで違うものなのか――あらためて戦後処理の難しさを感じる。
太平洋戦争では多くの血が流れすぎた。
交通アクセス
【鉄道】
- JR「長崎駅」から路面電車(赤迫行)で約15分、「松山町電停」下車、徒歩約5分
参考書籍
参考サイト
- 原爆ドームは世界遺産:ぱふぅ家のホームページ
- 広島平和記念公園・広島平和記念資料館:ぱふぅ家のホームページ
- ひめゆりの塔:ぱふぅ家のホームページ
- 第五福竜丸展示館:ぱふぅ家のホームページ
- 真珠湾、戦艦ミズーリ、アリゾナ記念館:ぱふぅ家のホームページ
- 西暦1941年(昭和16年) - 太平洋戦争はじまる:ぱふぅ家のホームページ
- 三鷹駅北口イルミネーションは武蔵野市の冬の風物詩:ぱふぅ家のホームページ
近隣の情報
- 長崎平和公園の平和祈念像のモデルは?:ぱふぅ家のホームページ
- 長崎平和公園に浦上天主堂遺構が移設されたわけ:ぱふぅ家のホームページ
- 長崎電気鉄道は日本一安い路面電車:ぱふぅ家のホームページ
- 長崎路面電車資料館のジオラマは社員の手作り:ぱふぅ家のホームページ
- 長崎の夜景と淵神社:ぱふぅ家のホームページ
- 長崎市で「ちゃんぽん」「卓袱料理」を食す:ぱふぅ家のホームページ
- 長崎駅と「かもめ広場」:ぱふぅ家のホームページ
- 浮世絵師の肉筆間近に(2023年5月14日)
- 江戸時代の模様を再現、長崎で「媽祖行列」開催(2023年2月1日)
- 長崎を彩るランタンフェスタ、試験点灯に歓声(2023年1月24日)
- 西九州新幹線盛り上げるジオラマ、長崎駅に「かもめ」プラレールも(2022年10月7日)
- 「世界新三大夜景」長崎再び(2021年11月24日)
- あれもこれも黄檗!?展(2020年11月23日)
- Tレックス、標本で学ぼう(2020年10月11日)
- つつじ咲く稲佐山公園、人出5分の1以下(2020年5月11日)
- 諏訪神社ですす払い(2018年12月31日)
- 長崎くんち、380年の伝統と迫力「テンション上がる」(2018年10月11日)
- 諏訪神社で長坂のぼり子供500人が一番札競う(2018年5月12日)
- ジブリ入場者10万人突破(2017年6月8日)
- ランタンフェス 笑顔でパレード あんたが皇帝(2017年2月5日)
- 高校生、変面で初舞台 長崎ランタンフェスティバル開幕(2017年1月31日)
- 長崎を彩るランタン1万5000個 28日からフェス開幕(2017年1月28日)
- 長崎くんち開幕(2016年10月9日)
- 長崎くんちの無事祈願 諏訪神社で神事(2016年10月4日)
- 浦上天主堂で早朝から追悼ミサ(2016年8月9日)
(この項おわり)
1955年(昭和30年)8月8日には、長崎県出身の彫刻家、北村西望(1884~1987)が制作した高さ9.7メートル、重さ30トンの平和祈念像が完成した。