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長崎平和公園(長崎県長崎市松山町)は、昭和 20(1945)年 8 月 9 日に投下された原爆の爆心地と、その北側の丘陵地帯を含めた地域に設けられた面積18.6 ヘクタールの公園である。入場無料。
昭和 30(1955)年 8 月 8 日には、長崎県出身の彫刻家、北村西望(きたむら・せいぼう;1884~1987)が制作した高さ 9.7 メートル、重さ 30 トンの平和祈念像が完成した。ブロンズ像の右手は空を指して原爆の脅威を、左手は水平に伸ばして地上の平和を、軽く閉じられたまぶたは原爆犠牲者の冥福を祈っていると言われている。 3 日前に最初の原爆の被害を受けた広島の原爆ドームの無機質的な雰囲気とは正反対の、いかにもキリスト教の街らしいオブジェである。
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西望は戦後、東京に移り住み、昭和 28(1953)年には井の頭公園にアトリエを構えた。この像の原型は、井の頭自然文化園の彫刻園にあるとのこと。ぱふぅ家が吉祥寺にやってくる 10 年前には存命だったわけで、意外に身近な人物である。 |
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平和祈念像のモデルは明らかにされていない。当時、アジアヘビー級王座を獲得したばかりのプロレスラー、力道山*であるとする説(平和祈念像のモデルは力道山?)がある一方で、マッチョなイエス=キリストというイメージも捨てきれない。また、半眼の大仏様のようでもある。 祈念像を完成させた西望は、長崎の料亭「青柳」(長崎県長崎市丸山町7-21)に通うようになった。青柳の女将、山口睦子の顔立ちは、祈念像によく似ていたと言われている。 |
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平和記念公園は、「願いのゾーン」「祈りのゾーン」「学びのゾーン」「スポーツのゾーン」「広場のゾーン」に分かれている。 「願いのゾーン」には、平和祈念像のほか、水を求めながら死んでいった犠牲者を悼むために昭和 44(1969)年に造られた「平和の泉」がある。 この日は噴水に虹がかかっていた。平和で何より。
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平和の泉の近くには、爆心地に最も近い所にあった公共建造物である長崎刑務所浦上刑務支所の遺構がある。原爆の熱線と爆風で、受刑者、刑事被告人や職員ら 134 名が即死した。
長崎市全体では、死者73,884 人、重軽傷者74,909 人、全焼 11,574 戸という被害規模である。
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原爆に関する各種資料や映像を見ることができる長崎原爆資料館は「学びのゾーン」にある。
広島に投下された原爆(リトルボーイ*)には約 50 キログラムのウラン 235 が使われていたが、長崎に投下されたもの(ファットマン*)には 6.2 キログラムのプルトニウム合金(プルトニウム 239 とガリウムの合金)が搭載されていた。爆発で放出されたエネルギーは TNT 換算で 22 キロトンと、リトルボーイの 15 キロトンを上回るものだった。 |
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プルトニウムは自然界にほとんど存在しない放射性物質だが、原子炉の副産物として生産できることと、ウラン 235 に比べて臨界量が少なくて済むため、戦後も開発が続けられた。ただし、超臨界爆発を起こすには一工夫必要で、ファットマンではコンピュータ科学の父、ジョン・フォン・ノイマン*らによって開発された爆縮レンズが搭載された。 |
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被爆都市となった長崎は、もちろん核兵器廃絶を願っていることに変わりはないのだが、広島とは雰囲気が違う。 これは、長崎医科大学(現・長崎大学医学部)で被爆者の救助にあたり、自らも原爆症で死亡した永井隆医師の影響が大きいのではないだろうか。 永井医師は放射線科医師であるため、外科医のように火傷を処置できたわけでもないし、内科医のように癌の治療ができたわけでもなかった。しかし、放射線の恐ろしさは熟知していた。 永井医師の必死の救命活動にも関わらず、日を追う毎に犠牲者は増えていった。彼は遺体を粗末にしないように、遺体を抱くように埋葬した。犠牲者の墓は、板片に名前を書いただけの粗末なものであったという。花を供えたくても、焼土となった長崎には供えるべき花がなかったのだ。 当時の、そして現代医療でも治療しようがない原爆症で死んでいった人々に対し、永井医師は「原子爆弾が浦上に落ちたのは大きな御摂理で、神の恵みであることに感謝を捧げねばならぬ」と弔辞を述べ、桜の苗木を千本植えた(「世界を感動させた日本の医師」鈴木厚/時空出版/2006 年 04 月)。 これが、広島と長崎の違いとなってあらわれているのだろう。 |
交通アクセス |
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【鉄道】
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この付近でネットができる宿 |
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(この項おわり)
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2008年08月03日更新
写真と記事 (C)2008 studio pahoo
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