長崎平和公園の平和祈念像のモデルは?

2008年7月28日 撮影
平和祈念像 - 長崎平和公園
長崎平和公園(長崎県長崎市松山町)は、1945年(昭和20年)8月9日に投下された原爆の爆心地と、その北側の丘陵地帯を含めた地域に設けられた面積18.6ヘクタールの公園である。入場無料。

1955年(昭和30年)8月8日には、長崎県出身の彫刻家、北村西望 (きたむらせいぼう) (1884~1987)が制作した高さ9.7メートル、重さ30トンの平和祈念像が完成した。
平和祈念像 - 長崎平和公園の大きな写真大きな写真
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ブロンズ像の右手は空を指して原爆の脅威を、左手は水平に伸ばして地上の平和を、軽く閉じられたまぶたは原爆犠牲者の冥福を祈っていると言われている。
3日前に最初の原爆の被害を受けた広島の原爆ドームの無機質的な雰囲気とは正反対の、いかにもキリスト教の街らしいオブジェである。
願いのゾーン - 長崎平和公園
西望は戦後、東京に移り住み、1953年(昭和28年)には井の頭公園にアトリエを構えた。この像の原型は、井の頭自然文化園の彫刻園にあるとのこと。ぱふぅ家が吉祥寺にやってくる10年前には存命だったわけで、意外に身近な人物である。
願いのゾーン - 長崎平和公園の大きな写真大きな写真
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北村西望 関連
願いのゾーン - 長崎平和公園
平和祈念像のモデルは明らかにされていない。当時、アジアヘビー級王座を獲得したばかりのプロレスラー、力道山であるとする説(平和祈念像のモデルは力道山?)がある一方で、マッチョなイエス=キリストというイメージも捨てきれない。また、半眼の大仏様のようでもある。
願いのゾーン - 長崎平和公園の大きな写真大きな写真
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祈念像を完成させた西望は、長崎の料亭「青柳」(長崎県長崎市丸山町7-21)に通うようになった。青柳の女将、山口睦子の顔立ちは、祈念像によく似ていたと言われている。
平和の泉 - 長崎平和公園
平和記念公園は、「願いのゾーン」「祈りのゾーン」「学びのゾーン」「スポーツのゾーン」「広場のゾーン」に分かれている。
「願いのゾーン」には、平和祈念像のほか、水を求めながら死んでいった犠牲者を悼むために1969年(昭和44年)に造られた「平和の泉」がある。
平和の泉 - 長崎平和公園の大きな写真大きな写真
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この日は噴水に虹がかかっていた。平和で何より。
長崎刑務所浦上刑務支所跡 - 長崎平和公園
平和の泉の近くには、爆心地に最も近い所にあった公共建造物である長崎刑務所浦上刑務支所の遺構がある。原爆の熱線と爆風で、受刑者、刑事被告人や職員ら134名が即死した。
長崎刑務所浦上刑務支所跡 - 長崎平和公園の大きな写真大きな写真
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長崎平和公園
長崎市全体では、死者73,884人、重軽傷者74,909人、全焼11,574戸という被害規模である。
長崎平和公園の大きな写真大きな写真
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原爆に関する各種資料や映像を見ることができる長崎原爆資料館は「学びのゾーン」にある。

広島に投下された原爆(リトルボーイ)には約50キログラムのウラン235が使われていたが、長崎に投下されたもの(ファットマン)には6.2キログラムのプルトニウム合金(プルトニウム239とガリウムの合金)が搭載されていた。爆発で放出されたエネルギーはTNT換算で22キロトンと、リトルボーイの15キロトンを上回るものだった。
松山町電停 - 長崎平和公園
プルトニウムは自然界にほとんど存在しない放射性物質だが、原子炉の副産物として生産できることと、ウラン235に比べて臨界量が少なくて済むため、戦後も開発が続けられた。ただし、超臨界爆発を起こすには一工夫必要で、ファットマンではコンピュータ科学の父、ジョン・フォン・ノイマンらによって開発された爆縮レンズが搭載された。
松山町電停 - 長崎平和公園の大きな写真大きな写真
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広島と長崎

被爆都市となった長崎は、もちろん核兵器廃絶を願っていることに変わりはないのだが、3日前に被爆した広島とは雰囲気が違う。
これは、長崎医科大学(現・長崎大学医学部)で被爆者の救助にあたり、自らも原爆症で死亡した永井隆医師の影響が大きいのではないだろうか。

永井医師は放射線科医師であるため、外科医のように火傷を処置できたわけでもないし、内科医のように癌の治療ができたわけでもなかった。しかし、放射線の恐ろしさは熟知していた。
永井医師の必死の救命活動にも関わらず、日を追う毎に犠牲者は増えていった。彼は遺体を粗末にしないように、遺体を抱くように埋葬した。犠牲者の墓は、板片に名前を書いただけの粗末なものであったという。花を供えたくても、焼土となった長崎には供えるべき花がなかったのだ。
当時の、そして現代医療でも治療しようがない原爆症で死んでいった人々に対し、永井医師は「原子爆弾が浦上に落ちたのは大きな御摂理で、神の恵みであることに感謝を捧げねばならぬ」と弔辞を述べ、桜の苗木を千本植えた(「世界を感動させた日本の医師」鈴木厚/時空出版/2006年(平成18年)04月)。

これが、広島と長崎の違いとなってあらわれているのだろう。

1996年(平成8年)、広島原爆ドーム世界遺産に登録された。その翌年、前長崎市長の本島等氏は、広島平和教育研究所が発行した『平和教育研究年報』に「広島よ、おごるなかれ 原爆ドームの世界遺産化に思う」という論文を寄せた。本島氏はこの中で「私は、この記事(原爆ドームが世界遺産に登録された記事)を新聞で見て日本のエゴが見えて悲しさと同時に腹が立った」と述べた。
本島氏は敬虔なクリスチャンとして知られているが、長島市長を務めていた1988年(昭和63年)、市議会本会議で「天皇に戦争責任はあると思う」と発言し、2年後、右翼団体の男に狙撃され重傷を負ったのだった。
それにしても、同じ国内の、同じ被爆都市である広島と長崎で、ここまで違うものなのか――あらためて戦後処理の難しさを感じる。
太平洋戦争では多くの血が流れすぎた。
長崎原爆関連

交通アクセス

【鉄道】
  • JR「長崎駅」から路面電車(赤迫行)で約15分、「松山町電停」下車、徒歩約5分

参考書籍

表紙 世界を感動させた日本の医師
著者 鈴木 厚
出版社 時空出版
サイズ 単行本
発売日 2006年04月01日頃
価格 2,200円(税込)
ISBN 9784882670391
こんな医師がいた!忘れてはいけない4人の医師の生き方を紹介。
 
表紙 永井隆
著者 中井俊已
出版社 童心社
サイズ 単行本
発売日 2007年06月
価格 1,540円(税込)
ISBN 9784494022380
長崎から世界へ平和を訴え続けたひとりの医師がいた。被爆し病床にあっても常に夢と愛の心を失わず、戦後の日本人に感動と生きる希望を与えた永井隆博士の生涯をたどる伝記。
 

参考サイト

近隣の情報

(この項おわり)
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