吉野ヶ里歴史公園は弥生時代の環濠集落

2022年8月15日 撮影
南内郭 - 吉野ヶ里歴史公園
南内郭 - 吉野ヶ里歴史公園
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目次

東口(メインゲート)

吉野ヶ里歴史公園
東口
吉野ヶ里歴史公園(佐賀県神埼郡吉野ヶ里町田手1843)は、吉野ヶ里遺跡と周辺部117ヘクタールを整備しているもので、2001年(平成13年)4月21日に開園した。2017年(平成29年)7月現在、全体の9割に当たる104ヘクタールが公園となっている。
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逆茂木 - 吉野ヶ里歴史公園
逆茂木
東口(メインゲート)を入って橋(天の浮橋)を渡ると、環濠入口がある。遺跡全体は、敵の侵入を防ぐために外壕が巡らされており、逆茂木 (さかもぎ) がバリケードの役割を果たした。
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展示室

銅剣 - 吉野ヶ里歴史公園
銅剣
環壕集落ゾーンには、佐賀県教育委員会が運営している展示室があり、遺跡から発見された貴重な資料を展示している。

弥生時代(紀元前4世紀頃~紀元後2世紀中頃)には武器として用いられ、その後、祭祀の道具としても利用された。
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甕棺 - 吉野ヶ里歴史公園
甕棺
素焼きの巨大な甕棺 (かめかん) には、王や位の高い人物が埋葬された。
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頭部がない人骨 - 吉野ヶ里歴史公園
頭部がない人骨
甕棺から頭部がない状態で発見された人骨――激しい戦闘で首が切り落とされたのかもしれない。
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銅鐸 - 吉野ヶ里歴史公園
銅鐸
1998年(平成10年)、吉野ヶ里遺跡で九州初となる銅鐸が発見された。
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銅鐸 - 吉野ヶ里歴史公園
銅鐸
それまで、九州では銅剣や銅矛は発掘されていたが、銅鐸が出土するのは初めてのことだった。
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銅鐸 - 吉野ヶ里歴史公園
銅鐸
弥生時代は、縄文時代になかった階級社会が発生した。吉野ヶ里の集落では、一般的な村人は貫頭衣を、身分の高い人は絹を染めて、縫い目のある移植を着ていた。
佐賀県は、1980年代に吉野ヶ里丘陵南部に工業団地の建設を計画するが、広範囲で土器が出土していることから、1983年(昭和58年)に文化財発掘の事前調査を開始。
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邪馬台国はどこだ? - 吉野ヶ里歴史公園
邪馬台国はどこだ?
1989年(昭和64年)には大規模な環濠集落が発見されたことが報じられ、邪馬台国に関係するのではないかという見方もされた。
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南内郭

南内郭 - 吉野ヶ里歴史公園
南内郭
3世紀頃に、吉野ヶ里の集落は最盛期を迎え、南内郭と北内郭には、支配者階級を中心に1,200人ほどが住んでおり、周辺のムラを併せたクニの人口は5,500人程度だったと考えられている。
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物見櫓 - 吉野ヶ里歴史公園
物見櫓
南内郭には4棟の大きな物見櫓 (ものみやぐら) があり、内郭への出入りを見張っていた。高さ12メートルあり、佐賀平野を見渡すことができる。魏志倭人伝 (ぎしわじんでん) に記されている楼観 (ろうかん) ではないかと考えられている。

約1万6千年前の縄文海進によって吉野ヶ里丘陵が貝やカニなどの食物に恵まれたことで、次第に定住する人が増えた。縄文時代晩期に農耕が伝わると集落が形成され、弥生時代前期には2.5ヘクタールの広さになった。石器や土器に加え、青銅器鋳造も行っていた。
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鳥形 - 吉野ヶ里歴史公園
鳥形
内郭への出入口には屋根のない門が設けられ、東アジアの稲作文化に共通する穀霊信仰 (こくれいしんこう) から鳥形があったと考えられている。これが鳥居になったという説もある。
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「大人」の家 - 吉野ヶ里歴史公園
「大人」の家
竪穴式住居は、旧石器時代後期から平安時代にかけて建てられていた。地面より低くすることで、内部の温度を一定に保つ効果があった。
支配者階級は大人 (たいじん) と呼ばれ、一般的な身分の下戸 (げこ) 、最下層の生口 (せいこう) に身分が分かれた。
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王の住まい - 吉野ヶ里歴史公園
王の住まい
南内郭の北西部には、柵によって囲まれた特別な空間がある。ここにある竪穴住居は、王の家をはじめ、その娘夫婦の家や妻の家であったと考えられている。
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王の住まい - 吉野ヶ里歴史公園
王の住まい
この時代の婚姻は夫婦別居で、夫が妻の家に通う妻問婚 (つまどいこん) だったと考えられている。王や大人の家と、その妻の家は別々にある。また、経済的に余裕がある大人は一夫多妻だったと考えられている。
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南内郭 - 吉野ヶ里歴史公園
南内郭
倭国大乱が収まり古墳時代になると、吉野ヶ里集落は放棄される。
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中のムラ

酒造りの家 - 吉野ヶ里歴史公園
酒造りの家
中のムラには酒造りの家がある。材料となる米を蒸した後、女性が口の中でしっかりと噛み、唾液と十分に混ぜ合わせて壺の中に入れ、自然発酵させて作った。当時、酒は貴重な飲み物で、祖先の霊へお供えしたり、重要な会議の後の会食や、お祭りの時などに振る舞われた。
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高床式倉庫 - 吉野ヶ里歴史公園
高床式倉庫
日本各地や海外との交易を行う市や、取引品を保管する高床式倉庫もあった。当時の交易は水運がになっており、吉野ヶ里遺跡の近くには大きな川が流れていた。
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高床式倉庫 - 吉野ヶ里歴史公園
高床式倉庫
交易には中国製の貨幣が使われていた。
当時、日本には鉄を作る技術はなかったが、朝鮮半島から鉄板を輸入し、それを加工して製品として販売していたようだ。
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市楼 - 吉野ヶ里歴史公園
市楼
倉と市の中心的な建物である市楼は3階建てだ。祭りも催された。また、市を管理する市長 (いちおさ) と呼ばれる人の住まいもあったようだ。
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北墳丘墓

北墳丘墓 - 吉野ヶ里歴史公園
北墳丘墓
北墳丘墓は、吉野ヶ里集落の歴代の王が埋葬されていると考えられており、古墳の原型でもある。
1986年(昭和61年)に始まった本格調査によって、北墳丘墓に埋葬されていた大型の甕棺から有柄銅剣やガラス製管玉が出土した。
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北墳丘墓 - 吉野ヶ里歴史公園
北墳丘墓
1992年(平成4年)に埋め戻されるが、2008年(平成20年)2月に発掘当時の様子を展示施設として公開した。
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北墳丘墓 - 吉野ヶ里歴史公園
北墳丘墓
本物の遺構を露出展示するために、樹脂を遺構面に散布し、空調を完備することで、ヒビ、カビ、コケの発生を防いでいる。
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北墳丘墓 - 吉野ヶ里歴史公園
北墳丘墓
発掘され保管されていた甕棺14基を北墳丘墓の遺構面に設置し、埋葬の様子が目で見て分かるようになっている。
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甕棺 - 吉野ヶ里歴史公園
甕棺
甕棺の中――頭部に空間があるが、儀式的な意味があるように感じた。
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レストラン

古代米そうめんセット - 吉野ヶ里歴史公園
古代米そうめんセット
公園東口ゲート前にあるレストランは、2019年(平成31年)2月22日にリニューアルオープンした。弥生をイメージしたメニュー開発を行っている。
暑い夏には古代米そうめんセット――古代米を使ったそうめんに、タケノコご飯がセットになっている。そうめんというより、そばのような食感。
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やわらかチキンカレー - 吉野ヶ里歴史公園
やわらかチキンカレー
こちらは、古代米を使ったカレーライス――子どもでも食べられる程度の辛さだが、古代米が入っているのかどうかは???
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吉野ヶ里公園駅

吉野ヶ里公園駅
吉野ヶ里公園駅
最寄駅は、JR長崎本線の吉野ヶ里公園駅。1942年(昭和17年)に三田川信号場として開設され、翌1943年(昭和18年)に三田川駅となり、1993年(平成5年)に吉野ヶ里公園駅に改称された。無人駅に近い業務委託駅で、ICカード利用可能。
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コインロッカーはないが、隣接するコミュニティセンター(公民館)で荷物を預かってくれるほか、レンタサイクルを借りられる。9時から17時30分まで。公園東口まで約1.4kmあり、歩くと20分近くを要する。
吉野ヶ里歴史公園内は無料バスで移動することができる。

交通アクセス

【鉄道】
  • JR長崎本線「吉野ヶ里歴史公園駅」下車、徒歩約25分
  • JR長崎本線「神埼駅」下車、徒歩約35分
行き方ナビ
出発地の最寄駅:

目的地:吉野ヶ里歴史公園
 関連

参考サイト

近隣の情報

(この項おわり)
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