皇居東御苑と江戸城天守閣跡

2008年2月2日 撮影
竹橋駅→科学技術館→皇居東御苑→大手門→大手町:2.5km
(車:4分,自転車:10分,徒歩:30分)

科学技術館から北桔橋門をくぐり、皇居東御苑を通り、大手門へ向かって歩いた。
東御苑は入苑料無料。原則として月曜日と金曜日以外の各日に開苑している。
江戸城関連

北桔橋門

北桔橋門
北桔橋門 (きたはねばしもん) は、江戸城天守閣に近く、本丸大奥からも直接外部に通じる門として重要な場所だ。江戸時代には、実際に跳ね橋が架かっていたという。
石垣が高く積み上げられた北桔橋門周辺の濠は深く、ここから落ちたらタダでは済むまい。
春にはサクラ、初夏には色とりどりのアジサイが咲く。

江戸城天守閣跡

江戸城天守閣の石垣
北桔橋門をくぐるとすぐ、江戸城天守閣を支えていた石垣(天守台)が目に入ってくる。

最初の天守閣は1607年(慶長11年)に完成した。その後、三代将軍家光が大改修を行い、最終的に完成したのは1638年(寛永15年)であった。
外層5層、内部6階建てで、高さが天守台を含めると58mという巨大な城であった。天気が良ければ、房総半島からでも姿を拝むことができたという。
江戸城天守閣の石垣
天守台だけで高さは20メートルになる。

江戸城天守閣は、1657年(明暦3年)1月18日の明暦の大火(いわゆる振袖火事)で焼け落ち、それ以来、再建されることはなかった。
石垣の所々が黒ずんでいるのは、当時の焼け跡であろう。

桃華楽堂

桃華楽堂-皇居東御苑
桃華楽堂 (とうかがくどう) は、1966年(昭和41年)、香淳皇后の還暦を記念して建てられた音楽堂である。香淳皇后のお印の「桃」と、華は「十」が6個と「一」で構成されていることから還暦(数えで61歳)の意味を込めて命名された。
八角形のユニークな形の建物で、屋根はテッセンの花弁を形どっている。
設計は、日本二十六聖人記念館(長崎県)や碌山美術館(長野県)を手がけた今井兼次(1895~1986年)が担当した。
今井兼次 関連

本丸広場

本丸広場-皇居東御苑
江戸城本丸があった辺りは広大な芝生が広がる。
これほど広く、整備された芝生は見たことがない。日本芝だろうか。見事に冬枯れしている。
警備上、運動は禁止とのこと。
話は変わるが、甲子園球場の天然芝は1年中青々としている。なぜか――管理会社の阪神園芸が、西洋芝のティフトンを下地に、その上からペンファインを植えていくという方法に成功、1982年(昭和57年)から二毛作に切り替えたためだ。
甲子園のグラウンドを管理する阪神園芸の職人の話は、「日本の職人技」(永峰英太郎/アスキー/2007年(平成19年)11月)に詳しい。

江戸城の番所

大番所-皇居東御苑
番所とは警備の詰所のことで、大番所、同心番所、百人番所が残っている。
大番所は中之門の側に設けられ、他の番所よりも位の高い与力・同心によって警備されていた。
これより先が本丸で、大名や旗本であっても、ここからは乗り物から降りて歩いて登城しなければならなかった。
江戸城関連
百人番所-皇居東御苑
百人番所は、本丸と二の丸へ通じる要所である大手三の門の前にある、南北50メートルの巨大な建造物である。
鉄砲百人隊と呼ばれた、甲賀組、伊賀組、根来組、二十五騎の4組みが昼夜交代で詰めていた。各組には同心が100人ずつ配属されていたことから、この名前が冠せられた。
同心番所-皇居東御苑
同心番所は、大手門から入城した大名が最初に通る番所である。与力や同心が詰め、主に登城する大名の供の監視に当たっていた。

大手門

大手門-皇居東御苑
皇居東御苑の東側に位置する大手門は、江戸城の正門だった。外側に面してた門を一の門(高麗門)、内側の門を二の門(本御門)という。慶長12年(1607年)に完成し、元和6年(1620年)に枡形門に改築された。
大名や役人が本丸に登下城する際に使う門で、馬上9人、徒侍3人、足軽30人、仲間20人鉄砲20丁、弓10張、長槍20筋、持筒2丁、持弓2組、提灯30で警護に当たっていた。一の門を内側から見ると鉄砲を撃つ隙間がある。
江戸城関連
大手門-皇居東御苑
大手門の外の堀端には下馬札が立っていた。付き人は、ここで主人の帰りを待っていたのだが、そこで各藩の情報を交換していた。ここから「下馬評」という言葉が生まれた。
大手門-皇居東御苑
大手門から大手町方面を臨む――そこに見えるのは21世紀の東京だ。

周辺地図

参考書籍

表紙 皇居散策ガイド
著者 中野正皓
出版社 三栄
サイズ ムックその他
発売日 2009年03月
価格 1,650円(税込)
rakuten
ISBN 9784779605864
 

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(この項おわり)
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