牛にひかれて善光寺参り

2015年8月15日・2020年10月17日 撮影
本堂 - 善光寺
本堂 2020年10月17日撮影
善光寺(長野県長野市元善町491)は、インドから百済経由で552年に日本に伝えられた日本最古の仏像「一光三尊阿弥陀如来像」を本尊としている。642年、現在の地に遷座された。
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本堂 - 善光寺
本堂 2020年10月17日撮影
本堂は1707年(宝永4年)に再建された。江戸時代中期を代表する仏教建築として国宝に指定されている。

間口約24メートル、奥行き約54メートル、高さ約26メートルという国内有数の木造建築で、T字型の棟の形が鐘を叩く撞木 (しゅもく) に似ていることから「撞木造り」と呼ばれている。屋根は総檜皮 (ひわだ) 葺きだ。

宗派はない。天台宗の大勧進と25院、浄土宗の大本願と14坊によって運営されている。
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仁王門 - 善光寺
仁王門 2015年8月15日撮影
仁王門は1752年(宝暦2年)に建立されたが、善光寺大地震などにより二度焼失。これは1918年(大正7年)に再建されたもの。山号は定額山 (じょうがくさん) の額が掲げられている。
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仁王門 - 善光寺
仁王門 2020年10月17日撮影
牛に引かれて善光寺参り」とは、思いがけず他人に連れられて、ある場所へ出掛けること。また、他人の誘いや思いがけない偶然で、よい方面に導かれることのたとえである。
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仁王門 - 善光寺
仁王門 2015年8月15日撮影
昔、善光寺近くに住んでいた不信人で欲深い老婆が、さらしていた布を隣の家の牛が角に引っかけて走り出したのを見て、その牛を追っていくうちに善光寺にたどり着き、それがきっかけで度々善光寺に参詣するようになり、信仰の道に入ったという言い伝えからできた故事成語だ。悪い意味で使うのは誤り。

戦国時代には荒廃したが、徳川家康により寺領千石の寄進を受け徐々に復興し、江戸時代末期には「一生に一度は善光寺詣り」と言われるようになった。現代では、秘仏の本尊の代りである前立本尊が御開帳となる年に、とくに多くの参拝者が訪れる。
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仁王門 - 善光寺
仁王門 2020年10月17日撮影
善光寺の仁王像は通常とは逆で、左側に口を開いているのが阿形 (あぎょう) を配置している。

仏敵が入ってこないように怖い顔で睨みをきかせている。
「阿」は口を開いて発する音声で字音の初め、万物の初めを象徴し、「吽」は口を閉じるときの音声で、字音の終わり、万物の終わりを象徴しているという。阿形は怒りを露わにし、吽形は怒りを内に秘めているともいわれている。
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仁王門 - 善光寺
仁王門 2015年8月15日撮影
552年に伝わった一光三尊阿弥陀如来像は、流行していた疫病を治めるために、物部氏によって難波の堀江に捨てられた。
信濃国の役人、本田善光 (ほんだ よしみつ) は、600年に上洛したときに堀江を通りかかると、水中から阿弥陀如来像があらわれ、善光の背中に乗った。義光は阿弥陀如来像を背負ったまま信濃に戻り、如来堂を建立して祀った。善光の名が善光寺の由来となった。

この阿弥陀如来像が善光寺の本尊となるが、絶対秘仏として完全非公開で、7年に一度の御開帳の時にも見ることができない。
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仁王門 - 善光寺
仁王門 2020年10月17日撮影
右手の門柱に口を閉じている吽形 (うんぎょう) である。

この仁王像は、高村光雲 (たかむら こううん) と弟子の米原雲海 (よねはら うんかい) の合作による彫刻だ。いくつかの部品に分けて彫り、それらを繋いだ寄木造りになっている。その原型は善光寺史料館に展示されている。
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仁王門 - 善光寺
仁王門 2015年8月15日撮影
1179年(治承3年)に焼失した善光寺は、1187年(文治3年)に源頼朝が再建し、1197年(建久8年)に参詣した。源氏と北条氏は善光寺の再建・造営事業を行い、念仏や禅とともに武士の間に善光寺信仰が浸透していった。

戦国時代に武田信玄上杉謙信川中島を隔てて対峙するが、権威の象徴と考えられていた本尊の争奪戦でもあった。
信玄は本尊を奪ったが、武田氏が織田信長に滅ぼされると、本尊は岐阜の善光寺へ移され、本能寺の変のあと、織田信雄、豊臣秀吉の手を経て、徳川家康が善光寺に戻した。
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仁王門 - 善光寺
仁王門 2020年10月17日撮影
仁王門からさらに進むと、山門が見えてくる。
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山門 - 善光寺
山門 2015年8月15日撮影
山門は重要文化財。1750年(寛延3年)に建立された二層入母屋造りの門である。
屋根は、大正年間の葺き替え時に檜皮葺きとなったが、2002年(平成14年)から5年かけて行われた平成大修理において、建立当時と同じサワラの板を用いた栩葺き (とちぶき) に復原された。
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山門 - 善光寺
山門 2020年10月17日撮影
楼上には、輪王寺宮筆になる善光寺と書かれた額が掲げられている。
これは通称「鳩字の額」と呼ばれており、3文字の中に鳩が5羽隠されている。更に「善」の一字が牛の顔に見えると言われ、「牛に引かれて善光寺参り」の信仰を如実に物語っている。
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スターバックスコーヒー - 善光寺
スターバックスコーヒー 2020年10月17日撮影
仁王門の近く、仲見世通りにあるスターバックスコーヒー 信州善光寺仲見世通り店は、写真のように和風の店構え。

江戸時代の初め、善光寺は相次ぐ火災に見舞われ、本堂の移転を決定する。本尊の分身の出開帳 (でがいちょう) を全国で行い、復興資金を集めた。
さらに、北国街道を経由して北陸と、善光寺街道と中山道を経由して江戸と京都と、甲州街道を経由して江戸と結ばれるようになり、多くの参詣者を集めた。

東日本大震災やコロナ禍の際も善光寺は出開帳や法要を行い、人々の安寧を祈る活動が続いている。
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交通アクセス

【鉄道】
  • JR長野駅から善光寺口バスロータリー「1番のりば(善光寺方面行き)」発の路線バスに乗り、約15分。
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出発地の最寄駅:

目的地:善光寺
善光寺 関連

近隣の情報

参考サイト

(この項おわり)
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