西暦1749年 - シェーンブルン宮殿が完成

ハプスブルク王朝の離宮
シェーンブルン宮殿
シェーンブルン宮殿
マリア・テレジアがオーストリア大公として君臨していた1749年、ウィーンのシェーンブルン宮殿(Schloss Schönbrunn)が完成する。
ハプスブルク王朝の歴代君主が離宮として使用した建物で、両翼の端から端まで180メートルあり、部屋数は1,441におよぶ。外壁は金張にしようとしたが、マリア・テレジアが財政状況を考慮し、黄金に近い黄色にしたという。
庭園は東西約1.2キロ、南北約1キロの広さで、1779年頃から公開されている。1996年にユネスコ世界遺産に登録された。
オーストリアで一番重要な観光資源で、年間入場数150万人。更に公園と動物園や行事での集客数520万人を合計すると年間には670万人が訪れる。

17世紀初め、神聖ローマ皇帝マティアスが狩猟時に美しい(schön)泉(Brunn)を発見したたことから、この土地がシェーンブルンと名付けられたという。
1693年、神聖ローマ皇帝レオポルト1世(在位:1658年 - 1705年)が狩猟用の別荘を建てた。歴代の神聖ローマ皇帝が増改築を行い、1749年にシェーンブルン宮殿として完成をみることになる。

1762年、マリア・テレジアの娘マリー・アントワネットが滞在している時、まだ6歳だったモーツァルトが招待される。
19世紀初め、フランス皇帝ナポレオン1世が司令部として用い、敷地内にフランス軍が駐屯したことがある。
1814年、シェーンブルン宮殿で、ナポレオン戦争の事後処理を行うウィーン会議が開催される。
1913年、フランツ・フェルディナント大公が日本から帰国後、日本庭園を造営させた。
1918年、オーストリア=ハンガリー帝国の崩壊にともない、シェーンブルン宮殿はオーストリア共和国政府の所有となる。改装され博物館などに利用された。日本庭園は荒廃したが、1998年、日本から庭師を招き修理復元された。

1960年代、ウィーンの住宅問題を解決するために、一部の居室が賃貸住宅になった。居住者は建物の性質を変えない程度のリフォームは許されており、2LDK(120m2)で家賃約4万円。
2014年には宿泊可能な部屋も用意された。

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