
足軽の息子として江戸で生まれた田沼意次は、第8代将軍・徳川吉宗の長男・徳川家重の小姓となり出世。第10代将軍・徳川家治の信任も厚く、1767年(明和4年)に側用人に抜擢される。これより、意次が失脚する1786年(天明6年)までを田沼時代と呼ぶ。
1745年(延享2年)、将軍徳川吉宗が引退し、享保の改革は頓挫した。第9代将軍となった徳川家重は、お気に入りの小姓だった田沼意次を側用人に取り立てる。
意次は、幕府の財政を改善するために重商主義政策をとった。株仲間の結成、銅座などの専売制の実施、鉱山の開発、蝦夷地の開発計画などである。また、平賀源内との親交を通じて蘭学を保護した。

意次は、武士は質素倹約を旨として米だけを収入源とする常識を打ち破った。商人の儲けが大きくなればなるほど、幕府に入る税金も大きくなるという仕組みになっていた。

1761年(宝暦11年)、家重が死去し、10代将軍の座についた息子の徳川家治も父の遺言に従って意次を重用した。
意次は、海産物を長崎に集め中国の商人に売るなどして、輸入中心だった消極的な貿易を輸出主導に切り換えた。
1772年(明和9年)意次は老中に任命された。足軽の身分出身が老中にまで上り詰めたのは、江戸幕府はじまって以来のことだった。

しかし、徳川家との繋がりで既得権益を守ってきた譜代や親藩は、商業中心の財政改革に不快感をあらわにした。なかでも急先鋒だったのが、徳川吉宗の孫で白河藩主の松平定信である。
意次は、幕府の財政を改善するために重商主義政策をとった。株仲間の結成、銅座などの専売制の実施、鉱山の開発、蝦夷地の開発計画などである。また、平賀源内との親交を通じて蘭学を保護した。

意次は、武士は質素倹約を旨として米だけを収入源とする常識を打ち破った。商人の儲けが大きくなればなるほど、幕府に入る税金も大きくなるという仕組みになっていた。

1761年(宝暦11年)、家重が死去し、10代将軍の座についた息子の徳川家治も父の遺言に従って意次を重用した。
意次は、海産物を長崎に集め中国の商人に売るなどして、輸入中心だった消極的な貿易を輸出主導に切り換えた。
1772年(明和9年)意次は老中に任命された。足軽の身分出身が老中にまで上り詰めたのは、江戸幕府はじまって以来のことだった。

しかし、徳川家との繋がりで既得権益を守ってきた譜代や親藩は、商業中心の財政改革に不快感をあらわにした。なかでも急先鋒だったのが、徳川吉宗の孫で白河藩主の松平定信である。
自然災害が続いたことも災いした。
1770年(明和7年)は干魃、1772年(明和9年)は江戸で大火、そして1773年(安永2年)には江戸だけで19万人が犠牲になった疫病が発生した。
さらに1783年(天明3年)4月、浅間山が突如大噴火を起こし、2万人以上の犠牲者が出る大惨事になった。噴煙が東日本一帯を覆い、農作物は壊滅的な打撃を受け、深刻な飢饉が広がった。天明の大飢饉である。
田沼意次は米の買い占めや売り惜しみを禁止する法令を出し、米の販売を自由化した。ところがこの政策が裏目に出て、無数の商人が米の売買に参入し、米不足が加速してしまった。
民衆は各地で一揆や打ち壊しを起こし、田沼意次を恨んだ。

一方、松平定信の白河藩では、他の地域から米を買い付け、藩内に供給した。飢饉に苦しむ東日本にあって、白河藩からは一人の餓死者も出さなかったという。

1786年(天明6年)、意次を重用していた将軍・徳川家治が病に倒れた。定信ら反対派は、意次が家治に見舞いに行くことを阻止した。
8月27日、ついに意次は老中を解任され、減封を受けて財産も没収されてしまった。その2年後、意次は失意のうちに70歳で死去する。

1787年(天明7年)、意次と入れ替わるように定信が老中に就任し、意次の改革を白紙に戻したうえで、重農主義の寛政の改革に着手する。
1770年(明和7年)は干魃、1772年(明和9年)は江戸で大火、そして1773年(安永2年)には江戸だけで19万人が犠牲になった疫病が発生した。
さらに1783年(天明3年)4月、浅間山が突如大噴火を起こし、2万人以上の犠牲者が出る大惨事になった。噴煙が東日本一帯を覆い、農作物は壊滅的な打撃を受け、深刻な飢饉が広がった。天明の大飢饉である。
田沼意次は米の買い占めや売り惜しみを禁止する法令を出し、米の販売を自由化した。ところがこの政策が裏目に出て、無数の商人が米の売買に参入し、米不足が加速してしまった。
民衆は各地で一揆や打ち壊しを起こし、田沼意次を恨んだ。

一方、松平定信の白河藩では、他の地域から米を買い付け、藩内に供給した。飢饉に苦しむ東日本にあって、白河藩からは一人の餓死者も出さなかったという。

1786年(天明6年)、意次を重用していた将軍・徳川家治が病に倒れた。定信ら反対派は、意次が家治に見舞いに行くことを阻止した。
8月27日、ついに意次は老中を解任され、減封を受けて財産も没収されてしまった。その2年後、意次は失意のうちに70歳で死去する。

1787年(天明7年)、意次と入れ替わるように定信が老中に就任し、意次の改革を白紙に戻したうえで、重農主義の寛政の改革に着手する。
この時代の世界
参考書籍
(この項おわり)