ワット式蒸気機関

世界の工場イギリス

自国で産出する石炭でワット式蒸気機関で駆動する紡績機を開発し、インドから輸入される綿花を原材料として大量生産されるようになった綿織物(コットン)は、たちまち毛織物(ウール)に取って代わり、イギリスの産業革命を牽引していくことになる。
産業革命を経たイギリスは、世界の工場と呼ばれるようになる。

19世紀に入ると蒸気船、蒸気機関車が発明され、交通運輸革命を迎える。そして1830年、マンチェスター-リバプール間を、初めて実用的な蒸気機関車が結ぶようになる。イギリスは世界中に蒸気機関車を輸出するようになる。
1872年、初めて日本で走った蒸気機関車もイギリスから輸入したものである。

1776年、アダム・スミスは『国富論』を著し、重商主義に代わる自由放任主義を唱えた。
産業革命を経たイギリスは、世界の工場と呼ばれるようになる。

19世紀に入ると蒸気船、蒸気機関車が発明され、交通運輸革命を迎える。そして1830年、マンチェスター-リバプール間を、初めて実用的な蒸気機関車が結ぶようになる。イギリスは世界中に蒸気機関車を輸出するようになる。
1872年、初めて日本で走った蒸気機関車もイギリスから輸入したものである。

1776年、アダム・スミスは『国富論』を著し、重商主義に代わる自由放任主義を唱えた。
クック船長が太平洋探検

1769年6月3日、金星の太陽面通過を観測することで、地球と太陽の距離を計算しようとして、英国王立協会は天文学者チャールズ・グリーンを中央アメリカのハイチへ派遣することにした。彼を現地へ送り届けるのに、英国海軍航海長であったジェームズ・クックに白羽の矢が立った。

ハレーは1742年に死去したが、フランスのジョゼフ・ニコラ・ドリルが中心となって、ヨーロッパ各地の天文学者に観測を呼びかけられた。しかし、ヨーロッパでは七年戦争の最中で、観測地へ向かう航路の安全が保証できなかった。それでも、60以上の場所で120以上の観測結果が得られた。

さて、金星の太陽面通過は非常に珍しい天文現象で、歴史上、7回しか記録されていない。直近で起きたのは2012年6月5日で、次回は2117年12月10日である。記録に残る最初の観測は、1639年にイギリスのエレミア・ホロックスが行ったものである。

七年戦争が終結し、1769年6月3日にも金星の太陽面通過が起きることがわかった。当時としては巨額だった科学プロジェクトへの予算も得やすい状況となり、77の場所で150以上の観測結果が得られた。

こうして、クック船長はエンデバー号を率いてタヒチへの航海に出ることになるわけだが、ヨーロッパ列強諸国は単なる科学事業に投資するだけでなく、国家としての威信をかけていた。
軍人であり出発前に士官となる海尉に任官されたクック船長は、航海の後半に実行すべき秘密指令を帯びていた。それは、南太平洋の探検であった。
タヒチを出発したクック船長は、10月6日、ニュージーランドに到達した。翌1770年4月20日、クック船長はタスマニア島に到達したと考えていたが、じつはヨーロッパ人として初めてオーストラリア大陸の東海岸に到達したのだった。一行は、オーストラリア先住民のアボリジニと接触した。
1770年8月22日、クック船長はポゼッション島に上陸し、オーストラリア東岸の英国領有を宣言した。1771年6月12日、エンデバー号はイギリスに帰還した。

エンデバー号の2年余りにわたる長期航海を可能にしたのは、壊血病による死者が出なかったことが貢献している。いまでは壊血病の原因がビタミンC欠乏症であることが分かっているが、当時のイギリス海軍は比較実験の結果から、柑橘類やザワークラウトを食べることで壊血病を予防できることを認識していた。

科学は軍艦の長期航行を可能にし、ヨーロッパ人による太平洋の収奪が始まった。

1772年、クック船長は2回目の航海に出発した。クック船長は開発されたばかりのクロノメーターを活用し、経度を正確に測定できることができるようになった。
1773年1月、ヨーロッパ人として初めて南極圏に入り、もう少しで南極大陸を発見するところまでなんかした。その後、南アメリカ大陸南端を回り、南ジョージア島と南サンドウィッチ諸島を発見し、1775年に帰還した。

1776年、クック船長は3回目の航海に出発した。1778年、ヨーロッパ人として初めてハワイ諸島に上陸する。その後、カリフォルニアからベーリング海峡までを探検し、詳しい海図を作製した。
だが、1779年2月、ハワイ島に戻った際に現地住民とトラブルとなり、刺し殺されてしまう。クック船長が率いたレゾリューション号とディスカバリー号は、1780年8月、イギリスに帰還した。

さて、金星の太陽面通過は非常に珍しい天文現象で、歴史上、7回しか記録されていない。直近で起きたのは2012年6月5日で、次回は2117年12月10日である。記録に残る最初の観測は、1639年にイギリスのエレミア・ホロックスが行ったものである。

七年戦争が終結し、1769年6月3日にも金星の太陽面通過が起きることがわかった。当時としては巨額だった科学プロジェクトへの予算も得やすい状況となり、77の場所で150以上の観測結果が得られた。

こうして、クック船長はエンデバー号を率いてタヒチへの航海に出ることになるわけだが、ヨーロッパ列強諸国は単なる科学事業に投資するだけでなく、国家としての威信をかけていた。
軍人であり出発前に士官となる海尉に任官されたクック船長は、航海の後半に実行すべき秘密指令を帯びていた。それは、南太平洋の探検であった。
タヒチを出発したクック船長は、10月6日、ニュージーランドに到達した。翌1770年4月20日、クック船長はタスマニア島に到達したと考えていたが、じつはヨーロッパ人として初めてオーストラリア大陸の東海岸に到達したのだった。一行は、オーストラリア先住民のアボリジニと接触した。
1770年8月22日、クック船長はポゼッション島に上陸し、オーストラリア東岸の英国領有を宣言した。1771年6月12日、エンデバー号はイギリスに帰還した。

エンデバー号の2年余りにわたる長期航海を可能にしたのは、壊血病による死者が出なかったことが貢献している。いまでは壊血病の原因がビタミンC欠乏症であることが分かっているが、当時のイギリス海軍は比較実験の結果から、柑橘類やザワークラウトを食べることで壊血病を予防できることを認識していた。

科学は軍艦の長期航行を可能にし、ヨーロッパ人による太平洋の収奪が始まった。

1772年、クック船長は2回目の航海に出発した。クック船長は開発されたばかりのクロノメーターを活用し、経度を正確に測定できることができるようになった。
1773年1月、ヨーロッパ人として初めて南極圏に入り、もう少しで南極大陸を発見するところまでなんかした。その後、南アメリカ大陸南端を回り、南ジョージア島と南サンドウィッチ諸島を発見し、1775年に帰還した。

1776年、クック船長は3回目の航海に出発した。1778年、ヨーロッパ人として初めてハワイ諸島に上陸する。その後、カリフォルニアからベーリング海峡までを探検し、詳しい海図を作製した。
だが、1779年2月、ハワイ島に戻った際に現地住民とトラブルとなり、刺し殺されてしまう。クック船長が率いたレゾリューション号とディスカバリー号は、1780年8月、イギリスに帰還した。
参考書籍
この時代の世界
(この項おわり)
従来のニューコメン式蒸気機関は、生成された熱の1%程度しか動力に転換できなかった。ワットは、シリンダーと冷却機を分離し、より多くの熱を動力に転換する「ワット式蒸気機関」を発明したのである。