興福寺は藤原鎌足の病気平癒を願って創建

2014年6月11日 撮影
興福寺 東金堂と五重塔
興福寺(奈良県奈良市登大路町48番地)は、669年(天智天皇8年)の創建と伝えられている。「古都奈良の文化財」の一部として世界遺産に登録されている。

写真手前は東金堂、奥は有名な五重塔だ。
興福寺 東金堂と五重塔の大きな写真大きな写真
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興福寺 五重塔
藤原鎌足 (かまたり) (中臣鎌足)の病気平癒を願い、釈迦三尊像を本尊として、669年に山背国山階(現京都府京都市山科区)に山階寺 (やましなでら) が建てられた。672年の壬申の乱の際に飛鳥に移されて厩坂寺 (うまやさかでら) となり、710年(和銅3年)の平城遷都で現在地に移され、興福寺となった。

東金堂と五重塔は726年(神亀3年)に建てられた。
現在の五重塔は1426年(応永33年)に再建されたもので、高さは50.1メートルと、木造塔としては東寺五重塔に次ぎ日本で2番目に高い。
興福寺 五重塔の大きな写真大きな写真
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興福寺 八角堂
写真の南円堂は813年(弘仁4年)、藤原冬嗣 (ふゆつぐ) が創建した八角堂で、1789年(天明9年)に再建された。国の重要文化財に指定されている。
西国三十三所の九番札所であるが、堂の扉は1年に一度、10月17日の大般若経転読会の時しか開かれない。
興福寺 八角堂の大きな写真大きな写真
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藤原氏と仏教

日本に仏教が伝来した頃、蘇我氏は仏教を積極的に受け入れたが、軍事を担う物部氏と、神祇 (じんぎ) に関わる中臣氏は反対派だった。ところが物部氏は蘇我氏に滅ぼされ、その蘇我氏も中大兄皇子と結んだ中臣鎌足によって滅ぼされると(大化の改新)、中臣氏は仏教の保護者となった。

一説によると、中臣鎌足は中臣氏の直系ではなく、傍系あるいは養子と言われている。鎌足は息子の定恵 (じょうえ) を僧侶にして、中国に留学させた。
その後、中臣氏は藤原氏となり、神祇と仏教をうまくバランスさせることで、日本の政治を操った。ここから神仏習合が始まったとも言える。

興福寺の興隆

興福寺は藤原北家との関係が深く、平安時代に入ると氏社である春日社一体だと主張して春日社の実権を握った。そして大和国の荘園の大部分を所領し、事実上の大和国国主となった。
鎌倉・室町時代に入っても大和武士や僧兵を擁する兵力のため、幕府は守護を置くことができなかった。

江戸時代末期の1868年(慶応4年)の神仏分離令により、春日社と一体の信仰が行われていた興福寺は大きな打撃をこうむった。境内の塀は取り払われ、樹木が植えられて、奈良公園の一部となった。
一時は廃寺同然となり五重塔も売りに出されたが、観光客の誘致に有利なことから、かろうじて残された。
1881年(明治14年)、ようやく再建が許可され、1897年(明治30年)から修理が始まった。1998年(平成10年)、世界遺産に登録された。
 興福寺 関連

交通アクセス

【鉄道】
  • 近鉄「奈良駅」東改札
  • JR奈良駅よりバス「奈良交通市内循環系統」に乗り5分
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出発地の最寄駅:

目的地:興福寺

近隣の情報

(この項おわり)
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