西暦710年 - 平城京遷都

元明天皇が平城京に遷都

なんと (710) 見事な平城京

朱雀門 - 平城京
朱雀門 - 平城京
710年(和銅3年)3月10日、第43代・元明天皇 (げんめいてんのう) 藤原京から平城京へ遷都した。
2010年(平成22年)には、平城遷都@1300年(正安2年)祭が催された。
平城京は唐の長安をモデルに、徐々に大きくなっていったと考えられている。
東西4.3km、南北4.8kmの都城で、中央には朱雀大路 (すざくおおじ) が走り、南には羅城門が、北の突き当たりには天皇の居城である大内裏 (だいだいり) が置かれていた。朱雀大路の東は左京、西は右京として、東西南北に走る道路によって碁盤の目のように整然と区画され、最盛期には10万人以上が暮らしていたと考えられている。

天平文化

和同開珎
和同開珎
元明天皇の孫にあたる第45代・聖武天皇 (しょうむてんのう) の天平年間(729~749年)を中心にさかえた奈良時代の貴族文化を天平文化と呼ぶ。唐から鑑真 (がんじん) などの僧がもたらした仏教を中心に、国際色豊かな文化であった。
平城京とその周辺では、708年(和銅元年)に鋳造が始まった和同開珎 (わどうかいほう) による取引が始まっていた。
舒明天皇~聖武天皇 系図
舒明天皇~聖武天皇 系図
聖武天皇の遺品などがおさめられた校倉造り (あぜくらづくり) 正倉院の宝庫には、インドやペルシアなどから伝わった品物も納められている。
この頃、唐招提寺 (とうしょうだいじ) や、日光菩薩・月光菩薩像 (がっこうぼさつぞう) がある東大寺法華堂(三月堂)が建設された。また、興福寺の阿修羅像が作られた。
太安万侶 (おおのやすまろ) らが古事記を、舎人親王 (とねりしんのう) らが日本書紀を完成させた。風土記万葉集が編纂されたのもこの時期である。

第40代・天武天皇 (てんむてんのう) (大海人皇子)は後継者に恵まれなかった。そこで、皇后が持統天皇として後を継ぎ、、孫の文武天皇 (もんむてんのう) への橋渡し役となった。ところが、文武天皇も25歳で崩御。そこで第38代・天智天皇の皇女である元明天皇が即位し、その娘、元正天皇 (げんしょうてんのう) を介し、文武天皇の皇子である聖武天皇へ引き継いだ。
一方、この時期、藤原鎌足 (ふじわらのかまたり) の息子である藤原不比等 (ふじわらのふひと) が朝廷内で頭角をあらわしてきた。不比等は娘の宮子を文武天皇に嫁がせ首皇子 (おびとおうじ) (のちの聖武天皇)を産ませ、聖武天皇には娘の光明子 (こうみょうし) を嫁がせた。

参考サイト

平城京跡への交通アクセス

【鉄道】
  • 近鉄奈良線「大和西大寺駅」北口から東へ徒歩10分
【バス】
  • JR奈良駅・近鉄奈良駅からバス「二条大路南4丁目」下車(朱雀門)
【自動車】
  • 京都方面から:京奈和道「木津IC」→R24を南へ→「二条大路南1」右折→阪奈道路を西へ
  • 大阪方面から:第二阪奈道「宝来IC」→阪奈道路を東へ

この時代の世界

575 625 675 725 775 825 600 600 600 600 700 700 700 700 800 800 800 800 710 平城京に遷都 680 748 元正天皇 688 763 鑑真 712 『古事記』編纂 680 723 太安万侶 714 771 藤原永手 701 756 聖武天皇 701 760 光明皇后 752 大仏の開眼供養 718 770 孝謙天皇→称徳天皇 700 772 弓削道教 784 長岡京へ遷都 794 平安京へ遷都 667 大津宮に遷都 672 壬申の乱 645 702 持統天皇 659 720 藤原不比等 661 721 元明天皇 694 藤原京に遷都 683 707 文武天皇 701 大宝律令 668 749 行基 706 764 藤原仲麻呂 768 春日大社の創建 699 役小角が流刑に 634 701 役小角 624 705 則天武后 690 則天武后の専制 685 762 玄宗 701 762 李白 676 新羅が朝鮮半島を統一 705 757 安禄山 710 761 史思明 719 756 楊貴妃 751 タラス河畔の戦い 755 763 安史の乱 732 トゥール・ポアティエの戦い 714 768 ピピン 688 741 カール・マルテル 742 814 カール大帝 712 775 マンスール 750 アッバース朝が成立 680 カルバラーの戦い 691 743 ヒシャーム 700 750 マルワーン2世 722 754 アブー=アルアッバース 731 788 アブド・アッラフマーン1世 Tooltip
(この項おわり)
header