なんと (710) 見事な平城京

朱雀門 - 平城京
平城京は唐の長安をモデルに、徐々に大きくなっていったと考えられている。
東西4.3km、南北4.8kmの都城で、中央には朱雀大路が走り、南には羅城門が、北の突き当たりには天皇の居城である大内裏が置かれていた。朱雀大路の東は左京、西は右京として、東西南北に走る道路によって碁盤の目のように整然と区画され、最盛期には10万人以上が暮らしていたと考えられている。
東西4.3km、南北4.8kmの都城で、中央には朱雀大路が走り、南には羅城門が、北の突き当たりには天皇の居城である大内裏が置かれていた。朱雀大路の東は左京、西は右京として、東西南北に走る道路によって碁盤の目のように整然と区画され、最盛期には10万人以上が暮らしていたと考えられている。
天平文化

和同開珎

舒明天皇~聖武天皇 系図
聖武天皇の遺品などがおさめられた校倉造りの正倉院の宝庫には、インドやペルシアなどから伝わった品物も納められている。
この頃、唐招提寺や、日光菩薩・月光菩薩像がある東大寺法華堂(三月堂)が建設された。また、興福寺の阿修羅像が作られた。
太安万侶らが古事記を、舎人親王らが日本書紀を完成させた。風土記や万葉集が編纂されたのもこの時期である。

第40代・天武天皇(大海人皇子)は後継者に恵まれなかった。そこで、皇后が持統天皇として後を継ぎ、、孫の文武天皇への橋渡し役となった。ところが、文武天皇も25歳で崩御。そこで第38代・天智天皇の皇女である元明天皇が即位し、その娘、元正天皇を介し、文武天皇の皇子である聖武天皇へ引き継いだ。
一方、この時期、藤原鎌足の息子である藤原不比等が朝廷内で頭角をあらわしてきた。不比等は娘の宮子を文武天皇に嫁がせ首皇子(のちの聖武天皇)を産ませ、聖武天皇には娘の光明子を嫁がせた。
この頃、唐招提寺や、日光菩薩・月光菩薩像がある東大寺法華堂(三月堂)が建設された。また、興福寺の阿修羅像が作られた。
太安万侶らが古事記を、舎人親王らが日本書紀を完成させた。風土記や万葉集が編纂されたのもこの時期である。

第40代・天武天皇(大海人皇子)は後継者に恵まれなかった。そこで、皇后が持統天皇として後を継ぎ、、孫の文武天皇への橋渡し役となった。ところが、文武天皇も25歳で崩御。そこで第38代・天智天皇の皇女である元明天皇が即位し、その娘、元正天皇を介し、文武天皇の皇子である聖武天皇へ引き継いだ。
一方、この時期、藤原鎌足の息子である藤原不比等が朝廷内で頭角をあらわしてきた。不比等は娘の宮子を文武天皇に嫁がせ首皇子(のちの聖武天皇)を産ませ、聖武天皇には娘の光明子を嫁がせた。
参考サイト
- 貨幣博物館で貨幣の歴史を学ぶ:ぱふぅ家のホームページ
- 和銅遺跡:聖神社、和銅の露天掘り跡、和銅黒谷駅:ぱふぅ家のホームページ
平城京跡への交通アクセス
【鉄道】
- 近鉄奈良線「大和西大寺駅」北口から東へ徒歩10分
- JR奈良駅・近鉄奈良駅からバス「二条大路南4丁目」下車(朱雀門)
- 京都方面から:京奈和道「木津IC」→R24を南へ→「二条大路南1」右折→阪奈道路を西へ
- 大阪方面から:第二阪奈道「宝来IC」→阪奈道路を東へ
この時代の世界
(この項おわり)
2010年(平成22年)には、平城遷都1300年祭が催された。