グラバー園は世界遺産

2016年3月17日 撮影
旧グラバー邸 - グラバー園
グラバー園(長崎県長崎市南山手町8番1号)は、2008年(平成20年)7月28日に訪問しているが、グラバー、リンガー、オルトの旧邸があった敷地に、長崎市内に残っていた歴史的建造物を移築した公園である。
旧グラバー邸 - グラバー園の大きな写真大きな写真
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旧グラバー邸 - グラバー園
旧グラバー住宅は1863年(文久3年)に建てられた、日本で最も古い木造西洋風建築だ。正面玄関がないバンガロー風の平屋で、上から見ると四つ葉のクローバーのような形をしている。
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チューリップ - グラバー園
旧グラバー邸の前庭では、毎年3月上旬から4月上旬にかけ、チューリップが咲き誇る。
また、6月になると、バラとアジサイが見頃になる。
チューリップ - グラバー園の大きな写真大きな写真
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グラバー像 - グラバー園
1961年(昭和36年)には国の重要文化財に指定された。2015年(平成27年)7月、「明治日本の産業革命遺産」の構成資産として、ユネスコの世界文化遺産に認定された。

イギリスの貿易商トーマス・ブレーク・グラバー(Thomas Blake Glover; 1838~1911)は、21歳の時、開港と同時に長崎に来日し、グラバー商会を設立した。

自らが開発した高島炭鉱の経営者「赤鬼」と恐れられたが、豪胆で情に厚く、使用人の子供にさえお土産を忘れないきめ細やかな愛情の持ち主だったと伝えられている。
グラバー像 - グラバー園の大きな写真大きな写真
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旧グラバー邸 - グラバー園
旧グラバー邸のゲストルームである。天井が高く、暖炉が設置されているのは来客に対する配慮であろうか。
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旧グラバー邸 - グラバー園
旧グラバー邸の台所である。
水を使うところということで煉瓦を敷き詰めてあるが、普通の煉瓦より薄く、まるでコンニャクのような形をしている。これを縦にして並べて使っていたので、とても頑丈だったという。
グラバーが作った小菅修船場にも、このコンニャク煉瓦が使われています。

また、屋根を勾配天井にして、煙を上に逃がしている。
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旧ウォーカー住宅 - グラバー園
旧ウォーカー住宅は、イギリス人、ロバート・ウォーカー・ジュニアが、明治中期に建てられたと考えられるこの建物を1915年(大正4年)に購入し、1958年(昭和33年)に亡くなるまで住んでいた。
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旧ウォーカー住宅 - グラバー園
彼の父ロバート・N・ウォーカーと、その兄ウィルソンは、グラバー商会の船長として、日本で活躍し、1898年(明治31年)に「R.N.ウォーカー商会」を設立した。1908年(明治41年)にロバートに会社を譲った。
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旧リンガー住宅 - グラバー園
イギリス人フレデリック・リンガーは、1868年(慶応4年)にグラバー商会を退職し、イギリス人E・Z・ホームと共同で「ホーム・リンガー商会」を設立した。
その頃から住んでいたのが旧リンガー住宅である。
旧リンガー住宅 - グラバー園の大きな写真大きな写真
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旧リンガー住宅 - グラバー園
フレデリックは1907年(明治40年)に死去するが、住宅は次男シドニーに譲られ、1965年(昭和40年)に長崎市に売却するまで利用されていた。
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旧スチイル記念学校 - グラバー園
旧スチイル記念学校は、1887年(明治20年)、旧英国領事館跡に建てられた木造2階建(玄関正面上は3階建)の校舎である。
スチイル記念学校は、当時アメリカのダッチ・レフォームド教会の外国伝道局長であったスチイル博士が、18歳で亡くなった息子のウィリアム・ヘンリーを記念するために寄贈した資金により開設された学校である。

その後、私立東山学院、私立中学東山学院、明治学院第二中学部東山学院と校名は変わってゆくが、英語教育と特色ある学風で1932年(昭和7年)までの45年にわたって続いた。海星学園が寄宿舎として使っていたが、1972年(昭和47年)に長崎市へ寄贈された。
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旧長崎地方裁判所長官舎 - グラバー園
旧長崎地方裁判所長官舎は、1883年(明治16年)3月、長崎控訴裁判所(現在の高等裁判所)の官舎として、現在の長崎市上町4番21号に建築された。

木造2階建、寄棟造。玄関は破風造で、明治時代の西欧化を反映した貴重な官庁建築のひとつである。原爆の火災を逃れ、1979年(昭和54年)に移築し復元した。
現在はレトロ写真館として利用されてる。
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旧自由邸 - グラバー園
自由邸は、江戸時代末期、日本最初の西洋料理レストランとして草野丈吉がオープンした店である。1878年(明治11年)7月に建てられた、木造2階建で、玄関は入母屋造の建物である。
自由亭は、長崎の三大西洋料理店(小島郷福屋、西浜町清洋亭)のひとつとして、内外の貴賓、地元高官などの社交の場に利用されていた。

1886年(明治19年)に草野丈吉が亡くなり、翌年に廃業した。建物は長崎地方裁判所が購入し、検事正官舎として利用され続けた。1973年(昭和48年)、長崎市が検察庁から譲り受けた。
現在、2階が喫茶室となっている。巨大なコーヒーメーカーからは独特の香りが漂ってくる。
旧自由邸 - グラバー園の大きな写真大きな写真
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公衆電話ボックス - グラバー園
この公衆電話ボックスは、1900年(明治33年)、わが国で最初に設置された東京・京橋のたもとのボックスを復元したものである。当時は「自働電話」と呼んでいた。
1925年(大正14年)、ダイヤル自動方式が採用され名称に混乱を来すとして、「公衆電話」に改称された。

1869年(明治2年)、わが国で初めて電信線架設工事が始まった
これに先立つ1868年(慶応4年)、トーマス・グラバーは、グラバー邸から高島の児島の別荘へ海底ケーブルを敷設し、わが国初の施設電話を設置した。
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和大砲 - グラバー園
長崎が生んだ砲術家・高島秋帆 (たかしま しゅうはん) の指導のもと、鉄砲鍛冶・野川清造が製造したと言われる和大砲だ。
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長崎港 - グラバー園
グラバー園から、長崎の街と港を一望することができる。
この日はちょうど、豪華客船「クイーン・エリザベス」が寄港していた。
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エスカレーター - グラバー園
残念ながら、一番眺めのよい旧三菱第2ドッグハウスは工事中だった。

園内には坂が多いが、高齢者や車椅子の方でも安心して見学できるよう、動く歩道やエスカレーターが設置されている。
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ハートストーン - グラバー園
園内の2箇所にハート型の敷石が埋め込まれている。これを見つけて触れると恋が成就する、幸福がやって来るといった噂が広まった。
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交通アクセス

【鉄道】
  • 路面電車「大浦天主堂下」から徒歩3分でグラバー園入口第一ゲート
  • 路面電車終点「石橋」から徒歩2分でグラバースカイロード

近隣の情報

グラバー園 関連

参考サイト

(この項おわり)
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