鹿屋航空基地史料館で特攻隊に思いを馳せる

2023年3月17日 撮影
鹿屋航空基地史料館
鹿屋航空基地史料館
鹿屋航空基地史料館 (かのやこうくうきちしりょうかん) (鹿児島県鹿屋市西原3丁目11-2)は1973年(昭和48年)12月に開館した海上自衛隊の航空史料館である。1993年(平成5年)7月にリニューアルした。
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鹿屋航空基地史料館
鹿屋航空基地史料館
1936年(昭和11年)に海軍鹿屋航空隊が開隊して以来、現代の海上自衛隊に至るまでの資料約5,500点を展示している。鹿屋市には太平洋戦争時に3つの飛行場が存在し、日本で最も多くの特攻隊が出撃した歴史がある。
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零式艦上戦闘機52型 - 鹿屋航空基地史料館
零式艦上戦闘機52型
2階には、零式艦上戦闘機52型が展示されている。1992年(平成4年)に錦江湾と吹上浜の海底から引き揚げられた21型の末期生産型と52丙型の2機を使用し、1機の52甲型として復元した機体である。
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零式艦上戦闘機52型 - 鹿屋航空基地史料館
零式艦上戦闘機52型
52甲型は主翼内の20ミリ機銃をベルト給弾式にして装弾数を125発に増やし、キャノピーに防弾ガラスを、コックピット後方に防弾壁を設けて搭乗員の生存性を向上させた。このため気体重量が増加し、大出力のエンジンが開発できなかったため、運動性の低下を招いた。
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救難ヘリコプターS-61A、ひこたろう - 鹿屋航空基地史料館
救難ヘリコプターS-61A、ひこたろう
海上自衛隊の S-61A。1976年(昭和51年)2月から計13機が導入され、救難ヘリコプターとして活躍したが、2001年(平成13年)3月までに全機除籍となった。
2018年(平成30年)7月25日にリニューアル25周年を迎え、記念キャラクター「ひこたろう」が誕生した。
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空母「赤城」の模型 - 鹿屋航空基地史料館
空母「赤城」の模型
空母「赤城」の100分の1スケールの模型。
1920年(大正9年)に天城型巡洋戦艦の2番艦として建造がはじまったが、ワシントン会議を受けて建造中止となり、軍縮条約の制限枠内で航空母艦に改造され、1927年(昭和2年)3月に竣工した。
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全長260メートル、水線幅31メートル、排水量41,300トン。1942年(昭和17年)6月のミッドウェー海戦で沈没した。
戦時国債 - 鹿屋航空基地史料館
戦時国債
1943年(昭和18年)2月22日に東条英機内閣の大蔵省が発行した大東亜戦争割引国庫債券(戦時国債)である。
表裏に拾圓(10円)という金額が明記されているが、この戦時国債は7円で発行され、満期時に10円を受け取れる。当時の10円は、現代の価値だと2~3万円に相当する。
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戦時国債 - 鹿屋航空基地史料館
戦時国債
50円の戦時国債。1936年(昭和11年)に成立した広田弘毅内閣以後は戦時国債を無制限に発行するようになったが、ほとんど償還されなかった。国債は980億2600万円発行され、1941年度以降は国債残高が国民所得を超過し、1945年度には1480億円となり、日本財政は完全に破綻した。
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二式大型飛行艇 - 鹿屋航空基地史料館
二式大型飛行艇
二式飛行艇は、1941年(昭和16年)1月に初飛行した大日本帝国海軍の飛行艇。レシプロエンジン装備の飛行艇としては当時世界最高性能を誇る傑作機とされ、167機が生産された。1945年(昭和20年)の終戦と共に退役。
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残った機体は4機のみで飛行できる状態にはなく、スクラップにされる予定だったが、1979年(昭和54年)に1機を船の科学館が引き取り、2004年(平成16年)4月から鹿屋航空基地史料館で展示されている。
対潜哨戒機「P2V-7」 - 鹿屋航空基地史料館
対潜哨戒機「P2V-7」
P2V-7 は、米ロッキード社が1946年(昭和21年)から生産を開始した対潜哨戒機で、1954年(昭和29年)に海上自衛隊が発足すると、1955年(昭和30年)にアメリカ海軍から供与を受けた。
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P2V-7エンジン「R3350-32W」 - 鹿屋航空基地史料館
P2V-7エンジン「R3350-32W」
海自は「おおわし」という愛称を付け、1957年(昭和32年)には川崎航空機(のちの川崎重工業)でのライセンス生産が決まり、11965年まで48機が生産された。
R3350エンジンは、B-29爆撃機にも搭載された、当時の航空機用レシプロエンジンとしては最大出力を誇った。
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対潜哨戒機「P-2J」 - 鹿屋航空基地史料館
対潜哨戒機「P-2J」
P2-J は、P2V-7 をもとに川崎重工業が開発製造した対潜哨戒機である。1971年(昭和46年)2月に運用開始し、1994年(平成6年)5月まで活躍した。生産数は83機。
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対潜哨戒機「P-2J」 - 鹿屋航空基地史料館
対潜哨戒機「P-2J」
基本設計は P2V-7 を踏襲している。P2V-7のエンジン R3350-32W は、アメリカ本国での生産が終了しており保守部品の入手が困難になると予想されたことや、対潜機器強化のために自重を削減する必要があり、ターボプロップエンジンに変更された。プロペラは4枚羽根から3枚羽根に変更されて、直径が約10センチ大きくなった。
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P2-Jコックピット - 鹿屋航空基地史料館
P2-Jコックピット
戦術航空士(TACO)の席を追加し、空調装置を設置することで湿度の高い日本近海において電子機器の性能を維持した。また、新型のAN/AQA-5ソナー情報記録装置を搭載した。
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対潜哨戒機 S2F-1 - 鹿屋航空基地史料館
対潜哨戒機 S2F-1
米国グラマン社が開発し、1956年(昭和31年)から導入がはじまった対潜哨戒機 S2F-1 で、空母で運用する。「おおたか」の愛称が付けられ、28年にわたり海上自衛隊対潜航空部隊の主力機として最盛期には60機が活躍したが、1984年(昭和59年)3月31日、鹿屋基地において全機除籍となった。
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練習機 R4D-6Q - 鹿屋航空基地史料館
練習機 R4D-6Q
R4D-6Q は、米国ダグラス社の名機 DC-3 を米海軍使用に改良した輸送機で、生産数は10,000機以上。1958年(昭和33年)にアメリカ軍から供与され、電子機器訓練用の練習機となり、機首や機体の上下にレドームが設けられている。自衛隊での愛称は「まなづる」。
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練習機 KM-2 - 鹿屋航空基地史料館
練習機 KM-2
KM-2は、富士重工業が製造し、1962年(昭和37年)から運用がはじまった海上自衛隊の練習機である。62機が製造された。対潜哨戒機などの大型機のパイロットも、必ず最初は KM-2で訓練し、パイロットを養成するうえで重要な機体だった、。1998年(平成10年)3月に退役した。自衛隊での愛称は「こまどり」。
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練習機 B-65 - 鹿屋航空基地史料館
練習機 B-65
B-65 は、ビーチ・エアクラフト社が開発したレシプロ双発ビジネス機「クイーンエア」を海上自衛隊に練習機として導入したもので、1963年(昭和38年)から1967年にかけて28機が導入された。機体のカラーリングは海上自衛隊のTC-90練習機に似ている。1999年(平成11年)に退役した。自衛隊での愛称は「うみばと」。
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九三式酸素魚雷 - 鹿屋航空基地史料館
九三式酸素魚雷
九三式酸素魚雷は、燃料の酸化剤として空気の代わりに、空気中濃度以上の酸素混合気体もしくは純酸素を用いる魚雷で、排気ガスの気泡が目立たず航跡が見えにくく爆発力が大きいというメリットがあったが、射程が短いというデメリットがあった。1933年(昭和8年)に大日本帝国海軍が発射実験に成功した。
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第二五四海軍航空隊 天山艦攻雷撃隊の碑 - 鹿屋航空基地史料館
第二五四海軍航空隊 天山艦攻雷撃隊の碑
第二五四海軍航空隊は、旧帝国海軍で華南防衛の主力戦闘機隊であった。南シナ海シーレーン護衛隊として、太平洋戦争終盤に最前線で護衛・迎撃・偵察行動に従事した。天山艦攻雷撃隊は1945年(昭和20年)2月に本土決戦に備えて編成された部隊。
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鹿児島出身の肥田真幸 (ひださねゆき) 海軍大尉が隊長を務めた。肥田は部下を特攻に出しながらも部隊の練度を維持し、大戦末期の菊水作戦における天山の夜間雷撃作戦に携わった。

交通アクセス

【バス】
  • 鹿児島空港から空港バスで鹿屋バスセンターまで約100分、鹿屋バスセンターからバスで約5分、航空隊前から徒歩で約3分
鹿屋航空基地史料館 関連

参考サイト

近隣の情報

(この項おわり)
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