
995年(正暦6年)、兄の中関白・藤原道隆が他界すると、藤原道長が内覧となり、実質的に政権を掌握した。999年(長保元年)11月1日、彰子は8歳年上の従兄・一条天皇に入内する。
藤原道隆の長女、中宮・藤原定子が、11月7日、第一皇子・敦康親王を出産したため、彰子は女御となり、翌年、中宮(皇后)に登り詰める。史上初めて一帝二后の状態となった。
しかし、1000年(長保2年)の暮れ、定子は第二皇女・媄子内親王を出産した直後に崩御してしまう。

やがて彰子は中宮として華やかさを誇り、「栄華物語」では「かかやく藤壺」と賞賛された。
1008年(寛弘5年)9月11日、彰子は第二皇子・敦成親王(第68代・後一条天皇)を出産。「紫式部日記」によれば、皇子誕生を長く待望していた父・道長は狂喜したという。

1011年(寛弘8年)6月13日、死の床にあって一条天皇は皇太子・居貞親王に譲位し、第67代・三条天皇が誕生する。このとき、敦成親王の立太子が決定した。
すでに敦康親王の祖父・藤原道隆も母・定子もこの世になく、第一皇子である敦康親王の天皇即位は望むべくもなかった。しかし、一条天皇の真意が第一皇子・敦康親王にあったことを察していた彰子は、敦成親王の立太子を後押しした父・道長を怨んだという。

1012年(寛弘9年)、道長は次女の藤原妍子を三条天皇の中宮に送り込み、1017年(長和5年)5月9日に三条天皇が崩御すると、11歳になったばかりの後一条天皇の中宮として三女の藤原威子を立て、その権勢の絶頂期を迎える。

道長が出家して政界から身を引くと、彰子は弟である藤原頼通と協力し、摂関政治を支えた。
藤原道隆の長女、中宮・藤原定子が、11月7日、第一皇子・敦康親王を出産したため、彰子は女御となり、翌年、中宮(皇后)に登り詰める。史上初めて一帝二后の状態となった。
しかし、1000年(長保2年)の暮れ、定子は第二皇女・媄子内親王を出産した直後に崩御してしまう。

やがて彰子は中宮として華やかさを誇り、「栄華物語」では「かかやく藤壺」と賞賛された。
1008年(寛弘5年)9月11日、彰子は第二皇子・敦成親王(第68代・後一条天皇)を出産。「紫式部日記」によれば、皇子誕生を長く待望していた父・道長は狂喜したという。

1011年(寛弘8年)6月13日、死の床にあって一条天皇は皇太子・居貞親王に譲位し、第67代・三条天皇が誕生する。このとき、敦成親王の立太子が決定した。
すでに敦康親王の祖父・藤原道隆も母・定子もこの世になく、第一皇子である敦康親王の天皇即位は望むべくもなかった。しかし、一条天皇の真意が第一皇子・敦康親王にあったことを察していた彰子は、敦成親王の立太子を後押しした父・道長を怨んだという。

1012年(寛弘9年)、道長は次女の藤原妍子を三条天皇の中宮に送り込み、1017年(長和5年)5月9日に三条天皇が崩御すると、11歳になったばかりの後一条天皇の中宮として三女の藤原威子を立て、その権勢の絶頂期を迎える。

道長が出家して政界から身を引くと、彰子は弟である藤原頼通と協力し、摂関政治を支えた。
この時代の世界
(この項おわり)
女房として、「源氏物語」の作者である紫式部や、歌人・和泉式部をしたがえ、朝廷に華麗な文芸サロンを形成した。
また、これより少し前、中宮定子の女房として、「枕草子」の作者とされる清少納言が仕えており、この頃、国文学が盛んになった。