木津駅は木材流通で栄えた歴史を表現

2015年8月25日 撮影
木津駅
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木津駅
木津駅(京都府木津川市木津池田116-2)の駅舎は流線型をしているが、木津川をイメージしたものという。また、木材の流通で栄えた木津町の歴史を偲んで、木目調のデザインとなっている。
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木津駅
開業は1896年(明治29年)のことで、奈良鉄道の終着駅だった。
現在、JR関西本線(大和路線)、奈良線、片町線(学研都市線)が乗り入れる、京都府最南端の駅もある。

木津市は人口約7万人。2007年(平成19年)3月、木津町、山城町、加茂町が合併して発足した。これにともない新しい駅舎が建設され、4月に供用開始された。
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木津駅
新しい駅舎は橋上からホームに接続する形になったが、旧駅舎で使っていた乗り換え通路は東西自由通路となった。開業当時の煉瓦壁が見えるように工夫されている。
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木津川・淀川と飛鳥川・大和川

大和川・淀川・木津川
奈良時代の平城京における水上輸送の大動脈は、飛鳥川→大和川→難波津(大阪湾)であった。そして、もう1つのルートが、木津川→山崎津(巨椋池 (おぐらいけ) )→淀川→難波津(大阪湾)である。

桓武天皇は、784年(延暦3年)に山城盆地に遷都し長岡京を置いたが、これは、木津川・淀川水系を利用する目論見があった。さらに桓武天皇は、敦賀から琵琶湖・淀川を経て難波津(大阪湾)へ至るルートを確保しようと考えた。昭和初期の干拓により消滅した巨椋池を船だまりとして活用した。
こうして飛鳥川・大和川ルートの重要性を低下させたことで、桓武政権は平城京を捨てて平安京へ遷都することが可能になった。

ちなみに、巨椋池は1933年(昭和8年)から1941年にかけて行われた干拓事業によって農地に姿を変え、その西端にあった池が京都競馬場のコース内側に残っている。このあたりは、江戸時代、江戸から大阪へ至る東海道五十七次の54番目、 (よど) 宿があり、木津川、桂川、宇治川が合流する用小として、徳川は淀城を築いた。

交通アクセス

【鉄道】
  • 京都駅からJR奈良線「みやこ路快速」で38分
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出発地の最寄駅:

目的地:木津駅

参考サイト

近隣の情報

(この項おわり)
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