西暦794年 - 平安京遷都

桓武天皇が平安京に遷都

泣くよ (794) 坊さん、平安京

平安京
794年(延暦13年)10月22日(旧暦)、桓武天皇は平安京に遷都した。これより鎌倉幕府が開かれる1192年(建久3年)までを平安時代と呼ぶ。

平安京は、現在の京都市よりやや小さく、東西4.5キロ、南北5.2キロの広さであった。平城京より南北に長い都である。
平城京同様、唐の長安をモデルに造られ、幅28丈(約84メートル)の朱雀大路を境に東側の左京と西側の右京に分かれていた。
さらに東西南北に走る大路・小路によって、40丈(約120メートル)四方の町に分けられていた。

東西方向に並ぶ町を4列集めたものを「条」、南北方向の列を4つ集めたものを「坊」と呼び、同じ条・坊に属する16の町にはそれぞれ番号が付けられていた。これによりそれぞれの町は「右京五条三坊十四町」のように呼ばれた。
道路の幅は小路でも4丈(約12メートル)、大路では8丈(約24メートル)以上あった。現在の京都市より大分広い。
四神相応
四神相応
平安京には城壁は存在しなかったが、中国から伝わった風水に基づく四神相応 (しじんそうおう) の考え方に基づいて場所を選定したといわれている。
つまり、東の青龍 (せいりゅう) が鴨川、西の白虎 (びゃっこ) が山陰道、南の朱雀 (すざく) 巨椋池 (おぐらいけ) 、北の玄武 (げんぶ) が船岡山といった対応付けである。
桓武天皇
桓武天皇
784年(延暦3年)、長岡京に遷都した桓武天皇であったが、早良親王 (さわらしんのう) 崇道天皇 (すどうてんのう) )の怨霊に悩まされていた。
そこで和気清麻呂 (わけのきよまろ) の建議を受け入れ、長岡京遷都からわずか10年後の794年(延暦13年)10月22日(旧暦)、平安京に遷都、11月8日に「この都を平安京と名付ける」と詔を下した。
平安京という名前には、「平らかで安らかな都」であってほしいとする桓武天皇の願いが込められている。その願いの通り、1869年(明治2年)に明治天皇が東京に遷るまで、1千年以上にわたって日本の「都」としての機能を果たすことになる。
桓武天皇はあらたな仏教を求め、804年(延暦23年)、最澄 (さいちょう) 空海 (くうかい) を唐へ派遣した。
最澄は805年(延暦24年)に帰国し、天台宗を開いた。空海は806年(延暦25年)に帰国し、真言宗を開いた。

この時代の世界

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(この項おわり)
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