西暦784年 - 長岡京へ遷都

桓武天皇による遷都
長岡京朝堂院復元模型
長岡京朝堂院復元模型
784年(延暦3年)、桓武天皇 (かんむてんのう) は、第40代・天武天皇 (てんむてんのう) から第48代・称徳天皇 (しょうとくてんのう) まで天武系の政権を支えてきた貴族や寺院の勢力を削ぐため、長岡京に遷都する。
長岡京の規模は平安京とほぼ同じだったと考えられている。
天皇系図 38~50代
天皇系図 38~50代
第50代・桓武天皇光仁天皇 (こうにんてんのう) の皇子で、天智天皇系である。781年(宝亀12年)、老齢を理由に退位した光仁天皇に代わり即位し、元号を天応とあらためる。

長岡京に遷都した翌年の785年(延暦4年)9月、長岡京の造営を担当した藤原種継 (ふじわらのたねつぐ) が暗殺された。種継暗殺の首謀者の中には、桓武天皇の弟である早良親王 (さわらしんのう) や、平城京の仏教勢力・東大寺に関わる役人が複数いた。

早良親王は淡路島に流されるが、流刑地に到着する前に絶食、憤死する。
早良親王の死後、日照りによる飢饉、疫病の流行や、皇后や皇太子の発病といった変事が起きた。原因を占ったところ、早良親王の怨霊であることがわかった。早良天皇の御霊を鎮める儀式が執り行われ、崇道天皇 (すどうてんのう) と追号した。
にもかかわらず、その2ヵ月後に長岡京を大雨が襲い大惨事となった。
そこで、和気清麻呂 (わけのきよまろ) はふたたび遷都することを提案する。

和気清麻呂は、769年(神護景雲3年)、称徳天皇に取り入り皇位を狙っていた道鏡 (どうきょう) の神託を確認、否定した人物である(宇佐八幡宮神託事件)。
このため流刑になるが、光仁天皇の即位とともに従五位下に復位され、桓武天皇の元では実務型官僚として頭角をあらわした。

長岡京付近の地図

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出発地の最寄駅:

目的地:長岡京跡

参考書籍

表紙 謎の平安前期―桓武天皇から『源氏物語』誕生までの200年
著者 榎村寛之
出版社 中央公論新社
サイズ 新書
発売日 2023年12月20日頃
価格 1,100円(税込)
ISBN 9784121027832

この時代の世界

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