兼六園はイグ・ノーベル化学賞と深い関わり

2015年10月2日 撮影
兼六園
2015年10月2日 撮影
兼六園(石川県金沢市丸の内1番1号)を再訪した。岡山市の後楽園と水戸市の偕楽園と並んで、日本三名園の一つに数えられている。
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(1920×1280 ピクセル, 1119 Kbyte)
ソメイヨシノの標本木 - 兼六園
2018年8月11日 撮影
1922年(大正11年)に国の名勝、1985年(昭和60年)に国の特別名勝に指定された。また、日本さくら名所100選の選定も受けている。入場有料。
写真は、園内にあるソメイヨシノの標本木。
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(1920×1280 ピクセル, 1706 Kbyte)

雁行橋

雁行橋 - 兼六園
2018年8月11日 撮影
並べられた11枚の石が、 (かり) の列が飛んでいくように見えることから、この名が付けられた。
この橋を渡ると長生きすると言われてきたが、1969年(昭和44年)から、石の保護のために通行が禁止された。
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(1920×1280 ピクセル, 1750 Kbyte)
雁行橋 - 兼六園
2018年8月11日 撮影
地元では「かりがね橋」という名称で親しまれており、金沢市民憲章の歌「金木犀の匂う道」の中にも「かりがね橋」が出てくる。「亀甲橋」とも呼ばれる。
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(1920×1280 ピクセル, 1376 Kbyte)

日本武尊銅像とイグ・ノーベル化学賞

日本武尊銅像 - 兼六園
2018年8月11日 撮影
日本武尊 (ヤマトタケルノミコト) の銅像は高さ5.5メートルあり、西南戦争で戦没した石川県の兵士400名を慰霊するため、1880年(明治13年)に建立された。日本で最初に建てられた銅像といわれている。
金屋町の喜多万右衛門 (きたまんうえもん) 家工場(現・釜万鋳造所)で鋳造された。鋳物師たちは、互いに知恵を持ち寄り大変な苦心と研究とを重ねながら銅像の完成にこぎつけた。
太平洋戦争中の金属供出を免れ、戦後に軍国主義的なものとしてGHQによる撤去指示を受けたが、仏様の像であると主張して撤去を食い止めた。
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(1276×1920 ピクセル, 1134 Kbyte)
日本武尊銅像 - 兼六園
2015年10月2日 撮影
金沢大学理学部計算科学科の廣瀬幸雄教授は、この銅像だけにハトが寄り付かないことに気づき、カラス除けの合金を開発した。これは、「ハトに嫌われた銅像の化学的考察」で、2003年(平成15年)にイグ・ノーベル化学賞を受賞している。
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(1428×1920 ピクセル, 1353 Kbyte)

霞ヶ池と内橋亭

霞ヶ池と内橋亭 - 兼六園
2018年8月11日 撮影
霞ヶ池 (かすみがいけ) は、兼六園の中心部にある5800m2の池で、眺める位置によって異なった様相を見ることができる。園内で一番大きい池で、池の中には蓬莱島という亀の形をした島が浮かんでいる。
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(2560×1707 ピクセル, 2126 Kbyte)
内橋亭 (うちはしてい) は、霞ヶ池のほとりに立つ庵で、食事と甘味、土産物を販売している。兼六園の始まりとなった蓮池庭にあった四亭の中の一つで、鯰之亭 (なまずのてい) とも。

根上松

根上松
2018年8月11日 撮影
根上松 (ねあがりまつ) は、大小40数本もの根が地上2メートルにまでせり上がったように見える迫力のある松の木で、13代藩主・斉泰 (なりやす) が土を盛り上げて若松を植え、根を深く土で覆い、成長後に土をのぞいて根をあらわにしたものだと伝えられている。
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(1920×1280 ピクセル, 1188 Kbyte)

龍石

龍石 - 兼六園
2015年10月2日 撮影
園内の守りの要として、魔除けの方角へ向けて虎石 (とらいし) 龍石 (りゅうせき) 獅子巌 (ししいわ) の3つの石が置かれている。
写真は竜石は、龍の巻くとぐろに見立てられ、小さな灯籠、マキの木、椿(龍石椿)が植えられている。
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時雨亭

時雨亭 - 兼六園
2015年10月2日 撮影
時雨亭 (しぐれてい) は、5代藩主・綱紀が建てた蓮池御亭 (れんちおちん) に遡ることができる。時雨亭と呼ばれるようになるのは、江戸末期のことである。廃藩の際に取り壊されるまで、噴水の前にあった。
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(1920×1289 ピクセル, 1286 Kbyte)
時雨亭 - 兼六園
2015年10月2日 撮影
2000年(平成12年)の長谷池周辺整備事業の竣工とともに復元された。
木造平屋建の柿葺で、面積は270m2。時雨亭芝生は約700m2ある。
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(1920×1280 ピクセル, 1700 Kbyte)
時雨亭 - 兼六園
2018年8月11日 撮影
亭内では、オリジナル生和菓子付きの呈茶を行っており、お茶会などの文化的行事目的に部屋や庭を借りることができる。
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(2560×1707 ピクセル, 3123 Kbyte)
時雨亭 - 兼六園
2015年10月2日 撮影
兼六園では、小規模グループを対象とする有料のガイドツアーを用意している。定員は15名で、所要時間は約40分。
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(1920×1280 ピクセル, 1501 Kbyte)

成巽閣

成巽閣 - 兼六園
2015年10月2日 撮影
成巽閣 (せいそんかく) は、13代藩主・斉泰 (なりやす) が母堂・真龍院 (しんりゅういん) お隠居所として造営したものだ。
2階建ての寄棟造り (よせむねづくり) 柿葺 (こけらぶき) で、幕末の武家造りの建物として、国の重要文化財に指定されている。
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成巽閣 - 兼六園
2018年8月11日 撮影
当時は金沢城から見て東南方向(辰巳の方角)にあったことから巽神殿 (たつみしんでん) と呼ばれていたが、明治に入って兼六園が一般公開されたときに成巽閣と改名された。
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金澤神社

金澤神社 - 兼六園
2015年10月2日 撮影
金澤神社は、11代藩主・治脩 (はるなが) が、寛政6年(1794年)に藩校・明倫堂を建てた際、その鎮守社として、学問の神であり、前田家の祖先とされる菅原道真を祀ったことが始まりである。
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金澤神社 - 兼六園
2015年10月2日 撮影
兼六園を整備する際に明倫堂は別の地に移転したが、神社はそのまま残され、12代藩主・12代藩主・斉広 (なりなが) が建てた竹沢御殿の鎮守社とされ、竹沢御殿御鎮守天満宮と呼ばれるようになった。歴代藩主は兼六園を散策する際、藩内の繁栄と平和を祈願したといわれる。

明治に入って兼六園が一般公開されたときに金澤神社と改名された。
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歴史

兼六園
2018年8月11日 撮影
兼六園は、江戸時代の大名庭園として、歴代の加賀藩主が長い歳月をかけて造ってきた廻遊式 (かいゆうしき) の日本庭園である。金沢城に隣接し、広さは3万坪にもなる。
兼六園の大きな写真大きな写真
(1920×1280 ピクセル, 1629 Kbyte)
兼六園
2018年8月11日 撮影
兼六園の名は宋代の詩人・李格非 (りかくひ) が書いた「洛陽名園記」に由来し、宏大・幽邃 (ゆうすい) ・人力・蒼古・水泉・眺望の6つを兼ね備える名園として、1822年(文政5年)、松平定信によって命名された。
兼六園の大きな写真大きな写真
(1920×1280 ピクセル, 1207 Kbyte)
長い年月をかけて形づくられてきた兼六園だが、作庭の基本は神仙思想に貫かれている。つまり、大きな池を穿って大海に見立て、そのなかに不老不死の神仙人が住むと言われる島を配し、長寿と永劫の繁栄をあらわしている。

1676年(延宝4年)、5代藩主・綱紀 (つなのり) は、瓢池 (ひさごいけ) 蓬莱 (ほうらい) 方丈 (ほうじょう) 瀛州 (えいしゅう) の3つの島を築き、蓮池庭 (れんちてい) と呼んだのが始まりとされる。

園内に自然の高低差があることから、土地の広さを最大に活かし、池や築山に立ち寄りながら全体を遊覧できる廻遊式庭園となっており、また、眼下には城下町の眺望を楽しめる。
また、霞ヶ池から石管で水を引き、水位の高低差だけを利用して、水を噴き上げさせている噴水が、1861年(万延2年)に造られた。日本最古の噴水とされている。水の高さは通常約3.5mあり、霞ヶ池の水位の変化によって変わる。

1759年(宝暦9年)の金沢大火で一部を焼失し、兼六園は荒廃した。
11代藩主・治脩 (はるなが) が復興に取り組み、1774年(安永3年)、夕顔亭や翠滝を造営した。

蓮池庭上部にある平坦な地を千歳台と呼ぶ。
12代藩主・斉広 (なりなが) は、1822年(文政5年)、蓮池庭上部にある平坦な千歳台に、隠居所「竹沢御殿」を造営した。、建坪4,000坪、部屋数200を超える豪壮な御殿だったという。この年、兼六園と命名された。
江戸末期の13代藩主・斉泰 (なりやす) の時代になると、竹沢御殿を取り壊し、霞ヶ池を広げたり、姿の良い木を植えるなどして、庭を拡張・整備した。1863年(文久3年)、母真龍院の隠居所として「巽御殿 (たつみごてん) 」(現在の成巽閣)が造営され、ほぼ現在の庭の形となった。

1874年(明治7年)、市民へ全面開放され、それにあわせて多くの茶店が出店した。
2000年(平成12年)、長谷池周辺整備事業が竣工し、時雨亭 (しぐれてい) 舟之御亭 (ふなのおちん) が再現されたほか、新たに二筋の流れを持つ庭園も整備された。

交通アクセス

【鉄道+バス】
  • 金沢駅から「兼六園下」「広坂」「出羽町」下車
  • 兼六園シャトルバス(土曜・日曜・祝日運行)
  • レトロバス「城下まち金沢周遊」号
【自動車】
  • 北陸自動車道「金沢西I.C.」から約30分
  • 北陸自動車道「金沢東I.C.」から約30分
  • 北陸自動車道「金沢森本I.C.」から約20分
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近隣の情報

参考サイト

(この項おわり)
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