鬼子母神(雑司ヶ谷鬼子母神)は安産・子育ての神様

2006年1月8日撮影
参道-鬼子母神
アムラックスからの帰り、初詣を兼ねて鬼子母神(東京都豊島区雑司ヶ谷3-15-20)を訪ねた。
場所は、JR池袋駅または目白駅から徒歩で15分程度の距離なのだが、車が入れないような路地ばかりなので、わかりにくい。
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鬼子母神堂-鬼子母神
都電荒川線の鬼子母神前駅から行くと、このようなケヤキ並木に覆われた参道を通る。中には樹齢400年になる木もあり、東京都の指定天然記念物とのこと。
鬼子母神は安産・子育ての神様である。詳しい由来などは公式ホームページを参照してほしい。
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この鬼子母神堂は、徳川4代将軍・家綱の時代、1664年(寛文4年)に建立された。1960年(昭和35年)に東京都有形文化財の指定を受け、1976年(昭和51年)から79年の解体復元工事で江戸時代の姿に甦った。
ただ、あちらこちらに鳥よけの金網がかけられているのには趣がそがれる。
鬼子母神
鬼子母神は「きしもじん」と読むとのこと。パパぱふぅは「きしぼじん」と読んでいたのだが――ATOKでは、どちらでも変換できた。
鬼子母神の大きな写真大きな写真
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鬼子母神はインドの夜叉女神で、千人の子どもを産んだ。しかし、近隣の子どもを獲って食べたことから、釈迦は鬼子母神の子どもを隠してしまった。自分の子どもを失う痛みを知った鬼子母神は改心し、出産・育児の神となった。
以来、鬼子母神は人肉の味に似ているというザクロを食べるようになった。ザクロは種子が多く、子宝の象徴でもある。
毎年10月16~18日に行われる御会式 (おえしき) は、江戸時代からつづく鬼子母神で最大の行事だ。18日夜には、枝垂れ桜に見立てた万灯を掲げ、うちわ太鼓を叩きながら行列は、池袋駅前を出発し、明治通り、目白通り、鬼子母神堂を経て、日蓮聖人を祀る法名寺祖師堂へと向かう。
もともとは日蓮聖人の命日に営む法要だが、子どもが育ちにくかった江戸時代の親の願いが鬼子母神信仰に繋がったと言われている。

鬼子母神の最盛期は江戸享保年間から文化・文政期にかけて(1716~1830年)と言われている。当時の「江戸名所図会」には「料理屋や茶店が軒を連ね、参拝の人が絶えない」と記されている。
ツノのない鬼”という意味で、鬼子母神の「鬼」の字には角がない。普通のフォントにはない漢字だ。
Unicodeの異体字セレクタを使って U+9B3C_E0102 が割り当てられている。普通の「鬼」は U+9B3C だ。
「恐れ入りやの鬼子母神」でお馴染みの「入谷鬼子母神」(東京都台東区下谷1-12-16、真源寺)の「鬼」の字は、また違う形をしている。 実は古い中国の「鬼」の字にはツノがなかった。ところが、康煕字典に収録された際にはツノが加わったようだ。このあたりの経緯は、小池和夫氏の『異体字の世界』に詳しい。

子授け銀杏

子授け銀杏-鬼子母神
境内には東京都指定天然記念物の大イチョウがある。「公孫樹」「銀杏」――いずれもイチョウと読む。
このイチョウは、高さ30メートル、幹の周りは8メートルに及ぶ巨木で、都内のイチョウの木としては、麻布善福寺の逆さイチョウに次ぐ大きさである。樹齢は600年と言われている。
昔から「子授け銀杏」と言われており、これを抱くと子どもを授かるという。

ところで、今年、大厄を迎えるパパぱふぅが御神籤を引いたところ、見事に「」。いきなり物の怪に気をつけなければならないわ、待ち人は来たらず、来るとしても災いを持ってくるとか、失せものは出づ、あるとしても水中など暗いところにあるそうで、そのうえ水難にも遭遇するとのこと。
あまりにも具体的な凶っぷりに、ままぱふぅに腹を抱えて笑われてしまった。
駄菓子屋-鬼子母神
境内には、昔の佇まいを残した駄菓子屋がある。
こぱふぅが吸い込まれるように入っていった。
そういえば、境内や近くの公園で遊んでいた子どもは、スポーツ刈りでジャージを着ていて‥‥この周辺だけタイムスリップしたような感じだ。
駄菓子屋-鬼子母神の大きな写真大きな写真
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武芳稲荷

武芳稲荷-鬼子母神
境内の片隅には、倉稲魂尊 (うがのみたまのみこと) を祀る武芳稲荷 (たけよしいなり) がある。
もともとこの地域は「稲荷の森」と呼ばれており、その地神がお稲荷さんであった。
武芳稲荷-鬼子母神の大きな写真大きな写真
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威光山法名寺

威光山法名寺
鬼子母神の北側に、本院である威光山法名寺 (ほうみょうじ) (東京都豊島区南池袋3-18-18)がある。
810年(大同5年)に真言宗の寺「威光寺」として創建された旧跡である。その後、1312年(応長2年)に日蓮宗に改宗し、現在の寺号に改められた。
威光山法名寺の大きな写真大きな写真
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この寺には立ち寄らなかったが、ここにもお稲荷さんがあるそうだ。
また、桜の名所とのことで、写真の山門の隣にも大きな桜の木が写っている。

鬼子母神からJR目白駅へ

距離:1.2km,車:2分,自転車:5分,徒歩:15分

目白という地名は、目白不動尊に由来する。
徳川三代将軍・家光は、大僧正・天海の意見を受けて、江戸府内から5箇所の不動尊を五色不動として選び、天下太平を祈願した。目白不動のほか、目黒の地名の由来となった目黒不動、目赤不動、目青不動、目黄不動の5つである。
現在、目黒不動は金乗院 (こんじょういん) (東京都豊島区高田2丁目12番39号)にあるが、もともとは、ここから東南東へ1.3kmほど離れた新長谷寺 (しんちょうこくじ) (東京都文京区関口2丁目5−19)にあった。新長谷寺は空襲で焼失し、目白不動尊を金乗院へ移し、現在はマンションが建っている。

この付近は武蔵野台地の東縁部にあたり、崖から湧き水が出ていたり、神田上水が滝になっている場所があり、江戸時代には風光明媚な庭園を備えた大名屋敷が造られた。なかでも、ホテル椿山荘は、黒田豊前守の下屋敷があった場所で、明治に入ると山縣有朋が邸宅と庭園を築いた。こうして明治期には、大臣や貴族が邸宅を築いた。目白御殿と呼ばれた旧田中角栄邸も、このエリアにある。

学習院は、1847年(弘化3年)の京都御所日御門前に開かれた京都学習院がはじまりで、1889年(明治22年)に四谷に移転した。1908年(明治41年)に、現在地に移転した。
その他、学習院昭和寮や近衛文麿の邸宅があり、高級住宅街という印象を与える目白ブランドを築いてゆく。

交通アクセス

【鉄道】
  • 都電荒川線(三ノ輪・早稲田間)「鬼子母神前」下車
  • JR池袋駅東口より徒歩15分
  • JR目白駅より徒歩15分
【バス】
  • JR池袋駅東口より都バス、西武バスで、目白方面行または新宿・渋谷方面行、「東京音大前」または「千登世橋」下車。
  • JR目白駅より、都バス新宿駅西口行「鬼子母神前」下車。

参考書籍

表紙 異体字の世界
著者 小池和夫
出版社 河出書房新社
サイズ 文庫
発売日 2007年07月
価格 704円(税込)
ISBN 9784309408576
異体字とは、正字、俗字、古字、別体、譌字、略字などの総称。常用漢字がどのように決まり、人名用漢字などでいつも混乱しているのは何が原因なのか。印刷文字の変遷から、現代のケータイやパソコンの文字まで、最近の漢字騒動も含めて異形の文字たちをめぐる奥深く驚きに満ちた初めての本。
 

参考サイト

近隣の情報

(この項おわり)
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