大塚美術館は触れることができる名画千点余りを展示

2017年10月14日 撮影
大塚美術館
大塚国際美術館(徳島県鳴門市鳴門町土佐泊浦字福池65-1)は、大塚製薬グループの創業75周年事業として1998年(平成10年)に開設された。
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大塚美術館
美術の教科書に必ず載っている名画1000点余りを陶板で原寸大に再現し展示する珍しい美術館である。延べ床面積は国立新美術館に次ぐ国内第2位の広さで、とても1日では回りきれない。

10年前に訪れた大鳴門橋架橋記念館「エディ」の麓にあり、建物は目立たぬように岩場をくりぬいた形になっている。入口は地下5階にあたり、40メートルという長いエスカレーターで上ると、地下3階のシスティーナ礼拝堂に到着する。
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システィーナ礼拝堂 - 大塚美術館
システィーナ礼拝堂
入口からエスカレーターで上ると、バチカンにあるシスティーナ礼拝堂が完全再現されている。奥行き40メートル、幅13メートル、高さ20メートルの礼拝堂は、ともかく大きい。
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システィーナ礼拝堂 - 大塚美術館
ミケランジェロ「最後の審判」
正面にあるのは、ミケランジェロが1533年(天文2年)から8年かけて描いた「最後の審判」で、幅12メートル、高さ13.7メートルという巨大フレスコ画である。
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システィーナ礼拝堂 - 大塚美術館
ミケランジェロ「創世記」
これより前、ローマ教皇ユリウス2世はミケランジェロに命じてシスティーナ礼拝堂の天井画を描かせている。創世記をテーマにした作品群で、1512年(永正9年)に完成した。これも再現されている。
その後、教皇クレメンス7世が祭壇画の制作を命じるが、ようやくパウルス3世の治世に完成した。この間、ローマ略奪があり、ルネサンス芸術は崩壊した。
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大塚オーミ陶業 - 大塚美術館
展示されている陶板名画は、大塚オーミ陶業株式会社が開発した特殊技術により陶板化されており、2000年(平成12年)たっても色褪せないという。
美術教育に資するべく、大塚国際美術館は写真撮影が可能で、陶板名画に直接手を触れることもできる。
大塚オーミ陶業 - 大塚美術館の大きな写真大きな写真
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ダ・ヴィンチ モナ・リザ - 大塚美術館
ダ・ヴィンチ「モナ・リザ」
モナ・リザは、レオナルド・ダ・ヴィンチが1503年(文亀3年)から1519年頃にかけて描いたとされる油彩画である。オリジナルはフランスの国有財産で、パリのルーヴル美術館が常設展示している。サイズは77cm×53cmと、意外に大きい。
空気遠近法を取り入れ、輪郭を描かずに顔や手を表現している。
正面から見ても斜めから見ても、女性の視線がまっすぐに鑑賞者に向けられているように感じる。

謎の微笑みからは、さまざまなパロディが生まれたほか、宇宙人が描かれているというトンデモ話まで、ネタに事欠かない世界一の名画である。
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ダ・ヴィンチ 最後の晩餐 - 大塚美術館
ダ・ヴィンチ「最後の晩餐」
最後の晩餐は、レオナルド・ダ・ヴィンチが1495年(明応4年)から1497年にかけて、サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院の食堂の壁画として描いた作品である。
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4.2×9.1メートルという巨大な作品が実寸大で再現されている。フレスコ画では使用できる色数に制限があることから、テンペラ画の技法で描かれている。だが、テンペラ画は経年劣化に弱い。
制作から500年以上、教会の増改築があったり、ナポレオン時代には馬小屋になったり、第二次大戦に入ると空襲を受けるなどしたものの、壁画は残り続けた。現在では存在自体が奇跡だと言われている。
1977年(昭和52年)から1999年にかけて大規模な修復作業が行われた。部屋の反対側には、修復前の最後の晩餐の陶板が展示されている。
ゴッホ ひまわり - 大塚美術館
ゴッホ「ひまわり」
ゴッホの「ひまわり」は全部で7点ある。
1888年(明治21年)、ゴッホは療養のためパリから南フランスのアルルに移り、ゴーギャンの到着を待ちわびながらひまわりを描いたという。
こちらは4番目のひまわり。オリジナルはロンドンのナショナル・ギャラリーにある。サイズは92.1cm×73cm。
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ゴッホ 幻のひまわり - 大塚美術館
ゴッホ「幻のひまわり」
こちらは2番目のひまわり。他のひまわりとは異なり、ロイヤルブルーの背景の中から、ひまわりが浮き上がっているように見える。サイズは98cm×69cm。
1920年(大正9年)、白樺派美術館の設立を進めていた武者小路実篤の依頼で、実業家の山本顧彌太が7万フラン(現在の価値に換算すると2億円)を出資してスイスから購入した。
だが、美術館設立は頓挫し、兵庫県芦屋市にある山本の自宅に飾られていた。1945年(昭和20年)8月の空襲で焼失したことから「幻のひまわり」と呼ばれる。
ゴッホ 幻のひまわり - 大塚美術館の大きな写真大きな写真
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ゴッホ 自画像 - 大塚美術館
ゴッホ「自画像」
ファン・ゴッホ美術館に展示されている作品について最新技術での調査を行ったところ、黄色の顔料として2種類の黄鉛が使われており、そのうち1つが光を受けると退色する傾向があることがわかった。もちろん、大塚美術館にあるものは退色しない。

東京・調布にある武者小路実篤記念館が所蔵している「セザンヌ ゴオホ画集」に、在りし日の幻のひまわりがカラー写真で収録されており、これをもとに2014年(平成26年)に陶坂化された。
ムンク 叫び - 大塚美術館
ムンク「叫び」
ムンクの叫びは、1893年(明治26年)の油彩で、サイズは91cm×73.5cmと意外に大きい。オリジナルはオスロ国立美術館に展示されている。
赤と黒の強烈な色使いは、モナ・リザとは別の意味で、誰もが知っている作品となっている。
じつは中央の人物が叫んでいるわけではなく、ムンクが実際に感じた幻覚を映像化した作品である。ムンクはこのときの体験を、日記に次のように記している。
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私は2人の友人と歩道を歩いていた。太陽は沈みかけていた。突然、空が血の赤色に変わった。私は立ち止まり、酷い疲れを感じて柵に寄り掛かった。それは炎の舌と血とが青黒いフィヨルドと町並みに被さるようであった。友人は歩き続けたが、私はそこに立ち尽くしたまま不安に震え、戦っていた。そして私は、自然を貫く果てしない叫びを聴いた。
ムンク 生命のダンス - 大塚美術館
ムンク「生命のダンス」
生命のダンスは、1899年(明治32年)から1900年にかけ制作され、現在はオスロー国立美術館に収蔵されている。
中央の赤いドレスの女性の目は、一緒に踊る男性を見つめ、左側の白いドレスの女性は若く喜びの表情を浮かべ、右側の黒いドレスの女性は年老いて疲れているように見える。何やら意味深な1枚である。
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ナポレオン一世の戴冠式と皇妃ジョゼフィーヌの戴冠 - 大塚美術館
ナポレオン一世の戴冠式と皇妃ジョゼフィーヌの戴冠
ナポレオン一世の戴冠式と皇妃ジョゼフィーヌの戴冠は、ナポレオン1世の首席画家ルイ・ダヴィッドが描いた油彩画で、1807年(文化4年)に完成した。1804年(享和4年)にノートルダム大聖堂で催された戴冠式の様子を描き出している。
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幅10メートル×高さ6メートルの大作で、190名を越える人物はほぼ等身大で描かれている。オリジナルはパリのルーブル美術館にある。
作品公開の翌年、アメリカの事業家から同サイズの複製の注文を受け、記憶を頼りに1822年(文政5年)に完成させた。すでにナポレオンは失脚しており、ダヴィッド自身も間もなく他界する。
2作目は現在、ヴェルサイユ宮殿に展示されている。
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ゴヤ「裸のマハ」
裸のマハは、ゴヤが1797年から1780年にかけ製作し、現在はプラド美術館に周到されている。サイズは97cm×縦190cmの油彩画。西洋美術として初めて実在の女性の陰毛を描いたことから、当時のスペインでは大問題になり、ゴヤは何度も裁判所に呼び出された。作品はプラド美術館の地下に隠され、1901年に初めて公開された。
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ゴヤ 着衣のマハ - 大塚美術館
ゴヤ「着衣のマハ」
着衣のマハは、裸のマハの直後、1800年(寛政12年)から1805年にかけ制作されたもので、サイズは同じ97cm×縦190cmの油彩画。現在は、プラド美術館で裸のマハと並んで展示されている。
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ゴヤに製作を依頼したマニュエル・デ・ゴドイ首相は女好きで有名だったが、自宅で「裸のマハ」を隠すように「着衣のマハ」を掲げ、滑車装置を使って「裸のマハ」が現れるような仕組みを用意していたという。
ブリューゲル バベルの塔 - 大塚美術館
ブリューゲル「バベルの塔」
オランダの画家ブリューゲルが描いたバベルの塔は2枚あり、こちらは1563年(永禄6年)の「大バベル」。サイズは114cm×155cm。ウィーンの美術史美術館が収蔵している。1565年(永禄8年)には、60cm×75cmと小さな「小バベル」が描かれた。
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それまでのバベルの塔を描いた絵画に比べると迫力のある構図で、塔は円柱状に変化している。足場を組んで煉瓦を積んでいく様子など、執拗なまでに細かく描き込まれている。
アルトドルファー アレクサンダー大王の戦い - 大塚美術館
アルトドルファー「アレクサンダー大王の戦い」
アレクサンダー大王の戦いは、1529年(享禄2年)、ドイツのアルブレヒト・アルトドルファーによって描かれた油絵で、サイズは158cm×120cm。イッソスの戦いがモチーフとなっており、ドイツの国立美術館アルテ・ピナコテークに収蔵されている。
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この絵画の特徴は、中空に浮かぶタブレットだ。ラテン語で
アレクサンダー大王は最後のダレイオスを打ち破り、10万の歩兵と1万を超える騎兵を殺害した。一方ダレイオスは1000に満たない騎兵と共に逃亡し、彼の母と妻と子供が捕虜になった。
と書かれている。
荒れ模様の空には夕陽と三日月が描かれており、不気味な雨雲が渦巻いている。そして、数千の騎兵と槍を構えた歩兵が、じつに緻密に描き込まれている。
フェルメール 真珠の耳飾りの少女 - 大塚美術館
フェルメール「真珠の耳飾りの少女」
真珠の耳飾りの少女は、オランダのフェルメールが1665年(寛文5年)頃に描いた油絵で、サイズは44.5cm×39cmで、マウリッツハイス美術館に収蔵されている。フェルメールの代表作であり、神秘的な微笑みを浮かべていることから、「北のモナ・リザ」「オランダのモナ・リザ」とも呼ばれる。
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真珠の耳飾りに輪郭線はなく、光の反射だけで大粒の真珠を立体感豊かに描き出している。
フェルメールの作品は色数が少ないのが特徴だが、この絵の青いターバンは、ラピスラズリという貴石から作られた高価な絵の具を使っている。
ラス・メニーナス 女官たち - 大塚美術館
ラス・メニーナス「女官たち」
女官たち(ラス・メニーナス)は、スペインのベラスケスが1656年(明暦2年)に描いた油絵で、サイズは318cm×276cmと大きく、プラド美術館に収蔵されている。
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中央に、5歳のマルガリータ王女が描かれている。フェリペ4世とマリアナの間に生まれた中では唯一の生き残りで、のちに神聖ローマ皇帝レオポルト1世と結婚する。だが、この絵の本当の主役は誰なのか、絵の中の画家が描いているのは何なのか、奥の鏡に映っている二人の男女は誰なのか、等々、謎が尽きない絵としても有名である。
ドラクロワ 民衆を導く自由の女神 - 大塚美術館
ドラクロワ「民衆を導く自由の女神」
民衆を導く自由の女神は、フランスのドラクロワが1830年(文政13年)に描いた油絵で、同年に起きたフランス7月革命をモチーフにしている。サイズは259cm×325cmで、ルーヴル美術館に収蔵されている。
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1831年(天保元年)5月のサロン展に出品されフランス政府が買い上げたが、扇動的な内容であることから、1848年(弘化4年)の革命までは常設展示は行われなかったという。それほど様々な寓意が込められている絵画で、パロディの題材としても事欠かない。
ドラクロワ サルダナパールの死 - 大塚美術館
ドラクロワ「サルダナパールの死」
サルダナパールの死は、フランスのドラクロワが1827年(文政10年)に描いた油絵で、アッシリア王サルダナパールの最期を描いた歴史画である。サイズは392cm×496cmで、ルーヴル美術館に収蔵されている。
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サルダナパールはアッシリアの30人の王の最後の人物で、放蕩の限りを尽くした暴君であったが、その最期にあたっては寵姫、侍者、財宝もろとも、自ら宮殿に火を放って死んだと伝えられる。この作品では、無表情なサルダナパールが、自らの財産が破壊されるのを眺めている。
アンジェリコ 受胎告知 - 大塚美術館
アンジェリコ「受胎告知」
受胎告知は、イタリアのアンジェリコが1430年(永享2年)頃、フィレンツェ北部フィエゾーレのサン・ドメニコ聖堂のために制作された祭壇画のひとつであると考えられている。サイズは194×194cmで、プラド美術館が所蔵している。
中央に聖胎を告げる大天使ガブリエル、右に聖告を受けいれる聖母マリア、さらに左後方には、楽園を追放されるアダムとイブの姿が描き混まれている。
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モッサ Elle - 大塚美術館
モッサ「Elle」
Elleは、怪奇と退廃を描いたフランスの画家モッサによる1906年(明治39年)の作品である。

Elleは「彼女」を意味するフランス語である。アール・ヌーヴォーな雰囲気が漂う彼女がこちらを見つめているのだが、彼女は死体の山の上に座しているという怖い絵である。
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マネ 笛を吹く少年 - 大塚美術館
マネ「笛を吹く少年」
笛を吹く少年は、フランスのマネが1866年(慶応2年)に完成させた油絵で、パリのオルセー美術館が所蔵する。サイズは161cm×97cm。

浮世絵の影響で画面がポスターのようにシンプルになっており、今風に言えば、フランス近衛軍鼓笛隊のマスコットといえよう。
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モネ ラ・ジャポネーズ - 大塚美術館
モネ「ラ・ジャポネーズ」
ラ・ジャポネーズは、フランスのクロード・モネが1876年(明治9年)に制作した、サイズが231cm×142cmという巨大な油彩画である。ボストン美術館が所蔵する。

1854年(嘉永7年)に日本が開港すると、着物や磁気など高級品がヨーロッパに流れ込み、日本の芸術や文化が注目されるようになり、ジャポニズムと呼ばれた。モネもジャポニズムの影響を受け、着物を着た妻カミーユをモデルにした本作品を、第2回印象派展に出展した。
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スーラ グランド・ジャット島の日曜日の午後 - 大塚美術館
スーラ「グランド・ジャット島の日曜日の午後」
グランド・ジャット島の日曜日の午後は、フランスのジョルジュ・スーラが1886年(明治19年)に制作した油彩画。サイズは207.6cm×308cm。ボストン美術館が所蔵する。
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パリ北西、セーヌ川の中州・グランド・ジャット島で夏の余暇を過ごす人々を描いた作品で、点描表現が特徴的だ。
小学生の頃、この作品のジグソーパズルをやったことがきっかけで、図画の水彩画を点描に切り替えたところ、通知表の点数が大幅アップした思い出がある。
アングル 泉 - 大塚美術館
アングル「泉」
は、フランスのドミニク・アングルが、1820年(文政3年)から1856年にかけて描いた油彩画で、サイズは163cm×80cm。オルセー美術館が所蔵する。

アングルはラファエロに心酔し、多くの裸婦を描くことで理想美を追求した。アングルの理想美とは、理想的なフォルムであって、必ずしも解剖学的に正しい人物画にはなっていない。
ただ、泉だけは写実的スタイルで描かれている。しかし、1820年(文政3年)に描かれたこの作品は、途中放っておかれ、アングルの晩年に弟子たちによってようやく完成されたといわれている。
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ダヴィッド ホラティウス兄弟の誓い - 大塚美術館
ダヴィッド「ホラティウス兄弟の誓い」
ホラティウス兄弟の誓いは、フランスのジャック=ルイ・ダヴィッドが1784年(天明4年)に制作した油彩画。サイズは326cm×420cmで、ルーヴル美術館が所蔵する。
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題材となっているローマのホラティウス三兄弟は、リウィウスの『ローマ建国史』によれば、ローマへの忠誠を示し、クリアトゥス兄弟と決闘した。制作されたのはフランス革命前夜。国家への忠誠を盛り上げる内容の絵が増えていった時期に重なる。
ピカソ ゲルニカ - 大塚美術館
ピカソ「ゲルニカ」
ゲルニカは、スペインのパブロ・ピカソが、スペイン内戦の1937年(昭和12年)3月、ドイツ軍の空爆でゲルニカが受けた無差別爆撃に抗議して作成した349cm×777cmの巨大な壁画だ。
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当初、モノクロのおどろおどろどしい印象もあり、評判は良くなかったが、次第に反戦、平和への強いメッセージ性を持つ絵画としての地位を築いていく。
ピカソ ゲルニカ - 大塚美術館
ピカソ「ゲルニカ」
ピカソの作品には、平和の象徴としてハトがよく描かれている。ところが本作では、翼の折れたハトが描かれている。
ピカソは死ぬまでフランコ将軍と対立し、本作品は長い間、ニューヨーク近代美術館に預けられていた。ピカソ、フランコの2人が没し、ようやくスペインに返還され、現在はマドリードの国立ソフィア王妃芸術センターに所蔵されている。
イアサント・リゴー ルイ14世の肖像 - 大塚美術館
イアサント・リゴー「ルイ14世の肖像」
ルイ14世の肖像は、フランスのイアサント・リゴーが1701年(元禄14年)に描いた油彩画で、サイズは276cm×194cmという大きなもの。ルーヴル美術館が所蔵する。

リゴーはスペイン帝国でカタルーニャ人として生を受けたが、1659年(万治2年)のピレネー条約で故郷ペルピニャンがフランス王国領となり、国籍上はフランス臣民となった。
リゴーは、顧客の衣装と背景の細部まで正確に描画できる能力を備え、印象的なポーズを提案できることから、ルイ14世時代の最も重要な肖像画家となった。
シャンパーニュ リシュリュー枢機卿の肖像 - 大塚美術館
シャンパーニュ「リシュリュー枢機卿の肖像」
リシュリュー枢機卿の肖像は、フランスのフィリップ・ド・シャンパーニュが1639年(寛永16年)頃に描いた油彩画で、サイズは222cm×155cmという大きなもの。ルーヴル美術館が所蔵する。

ルイ13世の宰相として名高いリシュリューの全身像で、枢機卿であることを示す赤い角帽を前に差し出し、見事な襞のついた僧服が鮮やかな色彩で描き出されている。
ルーベンス 三美神 - 大塚美術館
ルーベンス「三美神」
三美神は、フランドルのルーベンスが1638年(寛永15年)に完成した油彩画で、サイズは211cm×181cm。

古代より描かれてきたタレイア(花のさかり)、エウプロシュネ(喜び)、アグライア(輝く女)の「三女神」を描いた作品で、ルーベンスの裸婦像の大きな特徴である豊満な肉体表現と輝く肌の質感がいかんなく描き込まれている。
ルーベンスは、この作品を生涯手放すことはなく、没後におこなわれた競売でスペイン国王フェリペ4世によって購入され、現在はプラド美術館の所蔵となっている。
ルーベンスが活躍したフランドルは、中世に毛織物業を中心に商業、経済が発達し、ヨーロッパの先進的地域として繁栄した。この反映を背景に、15世紀にはフランドル絵画が確立し、イタリア・ルネサンスに影響を与えた。
ルーベンスは大規模な工房を経営し、その作品はヨーロッパ中の貴族階級や収集家間でも高く評価された。ルーベンスは古典にも通じており、さらに7ヶ国語を操り、外交官としても活躍した。スペイン王フェリペ4世とイングランド王チャールズ1世からナイト爵位を受けている。

交通アクセス

【バス】
  • 徳島行き高速バス「高速鳴門」→路線バス「大塚国際美術館前」バス停
【自動車】
  • 神戸淡路鳴門自動車道「鳴門北I.C.」から鳴門海峡方面(左折)約3分
大塚美術館 関連

近隣の情報

参考サイト

(この項おわり)
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