
崩れ落ちる兵士 - ロバート・キャパ
1936年1月、スペイン総選挙で共和派・社会主義者・共産党などからなるスペイン人民戦線派が勝利した。2月、首都マドリードに人民戦線内閣が成立すると、ただちに軍部はクーデタの準備に入った。
7月17日、モロッコのメリリャで反乱軍が蜂起し、政府軍大佐を銃殺、労働組合・人民戦線の指導者を逮捕し、本土のむけて「異常なし」と打電した。これがクーデタ開始の合図だった。

18日早朝、カナリア島ラス=パルマスにいたフランコ将軍はクーデター宣言を放送した。これはスペインでそれまでも政治危機の時によく見られた軍部の蜂起宣言(プロヌンシアミエント)であった。
これに呼応し、スペイン全土で反乱軍が蜂起した。ファシストのファランヘ党などが同時に蜂起したがデモなどの大衆的な反政府運動は起こらなかった。

軍の反乱の知らせを聞いた労働者は、「労働者に武器を!」と叫び政府に迫ったが首相キローガは収拾の目途が立たず辞任、次の首相もすぐ辞任した後に首相となったホセ=ヒラールが労働者に武器を与えることを決意、義勇軍が組織された。首都マドリードを初め各地に民兵委員会が生まれ、アナーキストも含む政府支持の民兵が組織された。

2、3日で全土を制圧し軍事政権を樹立することを想定していたフランコ軍は、武装した労働者の頑強な抵抗を受け、スペインは内戦状態に陥った。当時緊迫した世界情勢の中で、ファシズム国家と反ファシズム国家の対立と結びつき、外国軍や義勇兵も加わって、戦争状態になってゆく。

ナチス・ドイツとファシスト・イタリアはフランコ軍を支援する一方、ソ連は共和国政府を支援した。イギリスやフランスは不干渉の立場を取った。

11月に入ると、コミンテルンが送り出した国際義勇軍がマドリードに到着した。50カ国、2万人以上の規模だったとされている。フランコ軍によるマドリード侵攻は膠着状態に陥った。

18日早朝、カナリア島ラス=パルマスにいたフランコ将軍はクーデター宣言を放送した。これはスペインでそれまでも政治危機の時によく見られた軍部の蜂起宣言(プロヌンシアミエント)であった。
これに呼応し、スペイン全土で反乱軍が蜂起した。ファシストのファランヘ党などが同時に蜂起したがデモなどの大衆的な反政府運動は起こらなかった。

軍の反乱の知らせを聞いた労働者は、「労働者に武器を!」と叫び政府に迫ったが首相キローガは収拾の目途が立たず辞任、次の首相もすぐ辞任した後に首相となったホセ=ヒラールが労働者に武器を与えることを決意、義勇軍が組織された。首都マドリードを初め各地に民兵委員会が生まれ、アナーキストも含む政府支持の民兵が組織された。

2、3日で全土を制圧し軍事政権を樹立することを想定していたフランコ軍は、武装した労働者の頑強な抵抗を受け、スペインは内戦状態に陥った。当時緊迫した世界情勢の中で、ファシズム国家と反ファシズム国家の対立と結びつき、外国軍や義勇兵も加わって、戦争状態になってゆく。

ナチス・ドイツとファシスト・イタリアはフランコ軍を支援する一方、ソ連は共和国政府を支援した。イギリスやフランスは不干渉の立場を取った。

11月に入ると、コミンテルンが送り出した国際義勇軍がマドリードに到着した。50カ国、2万人以上の規模だったとされている。フランコ軍によるマドリード侵攻は膠着状態に陥った。

ゲルニカ - ピカソ
工業先進地域で独立心が強かったバスク地方は、バスク自治政府を築いた。1937年3月、反乱軍はバスク攻撃を開始し、4月に入るとゲルニカに対しドイツ空軍による空爆が3時間にわたって続けられ、人口7千の町の1654人が死亡した。亡命していたピカソは、抗議を込めて大作『ゲルニカ』を描いた。
また、ロンドンを放浪していた作家のジョージ・オーウェルが、マルクス主義統一労働者党の兵士として参戦した。前線で咽喉部に貫通銃創を受け、九死に一生を得たが、スターリン主義者によるマルクス主義者への弾圧が強まり、傷が癒えるとヨーロッパへ帰還する。帰国後、スペイン内戦体験を描いた『カタロニア讃歌』を出版するも、ほとんど売れなかった。

1938年9月のミュンヘン協定で、イギリス・フランスはヒトラーによるズデーテン割譲を承認した。これを見たスターリンは、イギリス・フランスに対する不信を強め、ドイツとの提携に転じた。同時にスターリンはスペイン人民戦線に対する支援を打ち切った。
1939年1月、政府軍は武器弾薬も底をつき、バルセロナ市民は食糧に事欠く有様となった。多くの難民がフランス国境に押し寄せた。
ついに1月26日、フランコ軍はバルセロナを占領、人民戦線政府のアサーニャなど首脳は徒歩でフランスに逃れ、3月28日に降伏した。
また、ロンドンを放浪していた作家のジョージ・オーウェルが、マルクス主義統一労働者党の兵士として参戦した。前線で咽喉部に貫通銃創を受け、九死に一生を得たが、スターリン主義者によるマルクス主義者への弾圧が強まり、傷が癒えるとヨーロッパへ帰還する。帰国後、スペイン内戦体験を描いた『カタロニア讃歌』を出版するも、ほとんど売れなかった。

1938年9月のミュンヘン協定で、イギリス・フランスはヒトラーによるズデーテン割譲を承認した。これを見たスターリンは、イギリス・フランスに対する不信を強め、ドイツとの提携に転じた。同時にスターリンはスペイン人民戦線に対する支援を打ち切った。
1939年1月、政府軍は武器弾薬も底をつき、バルセロナ市民は食糧に事欠く有様となった。多くの難民がフランス国境に押し寄せた。
ついに1月26日、フランコ軍はバルセロナを占領、人民戦線政府のアサーニャなど首脳は徒歩でフランスに逃れ、3月28日に降伏した。
この時代の世界
(この項おわり)