
ダヴィッド「ナポレオンの戴冠式」(大塚美術館所蔵)
1804年、ナポレオン・ボナパルトはナポレオン法典を発布すると同時に、国民投票で皇帝となる。12月2日、ノートルダム大聖堂において即位式を挙行し、教皇ピウス7世の目の前で、自ら王冠をかぶった。政治の支配のもとに教会をおく意思を明確にしたナポレオン1世の誕生である(フランス第一帝政)。
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1796年、イタリア遠征軍司令官に抜擢されたナポレオン・ボナパルトは、翌1797年、オーストリアを破り、第1回対仏大同盟を崩壊させた。

1798年、ナポレオンはイギリスとインドの通商を断つためにエジプトに遠征するが、ネルソン率いるイギリス艦隊に敗れ、エジプトに封じ込められた。
1799年、第2回対仏大同盟が結成されると、ナポレオンは単身、エジプトからフランスに戻り、11月10日には総裁政府を倒し(ブリュメール18日のクーデター)、3人の統領からなる統領政府を樹立し、自らが第一統領となる。
そして、1801年2月9日、オーストリアとの和平条約(リュネビルの和約)を締結し、続いてロシア、イギリスとも和平条約を結び、フランスに平和が取り戻される。
その結果、1802年、第2回対仏大同盟が解体し、ナポレオンは国民投票で終身統領となる。

ナポレオンは、閣僚や大臣に多くの政治家・官僚・学者などを登用し、自身が軍人であるほかには、国防大臣のみに軍人を用いた。

ちょうどこの頃、ナポレオンに共感していたドイツのベートーヴェンは交響曲「ボナパルト」を作曲していた。だが、ナポレオンが皇帝に就いたことを知るやいなや「この俗物め!」と怒り、ナポレオンへの献辞を取り消した。この楽曲が交響曲第3番「英雄(エロイカ)」である。

1798年、ナポレオンはイギリスとインドの通商を断つためにエジプトに遠征するが、ネルソン率いるイギリス艦隊に敗れ、エジプトに封じ込められた。
1799年、第2回対仏大同盟が結成されると、ナポレオンは単身、エジプトからフランスに戻り、11月10日には総裁政府を倒し(ブリュメール18日のクーデター)、3人の統領からなる統領政府を樹立し、自らが第一統領となる。
そして、1801年2月9日、オーストリアとの和平条約(リュネビルの和約)を締結し、続いてロシア、イギリスとも和平条約を結び、フランスに平和が取り戻される。
その結果、1802年、第2回対仏大同盟が解体し、ナポレオンは国民投票で終身統領となる。

ナポレオンは、閣僚や大臣に多くの政治家・官僚・学者などを登用し、自身が軍人であるほかには、国防大臣のみに軍人を用いた。

ちょうどこの頃、ナポレオンに共感していたドイツのベートーヴェンは交響曲「ボナパルト」を作曲していた。だが、ナポレオンが皇帝に就いたことを知るやいなや「この俗物め!」と怒り、ナポレオンへの献辞を取り消した。この楽曲が交響曲第3番「英雄(エロイカ)」である。

皇帝となったナポレオンは、侵略戦争を開始する。
1805年、ナポレオンはスペインのトラファルガ岬の沖でネルソン提督率いるイギリス艦隊に敗北(トラファルガーの海戦)したものの、アウステルリッツの戦いでオーストリア、ロシアを破る。
1805年、ナポレオンはスペインのトラファルガ岬の沖でネルソン提督率いるイギリス艦隊に敗北(トラファルガーの海戦)したものの、アウステルリッツの戦いでオーストリア、ロシアを破る。
翌1806年には南西ドイツ諸侯がナポレオンを盟主とするライン同盟を結成したため、神聖ローマ皇帝フランツ2世(マリア・テレジアの孫)は退位せざるを得なくなった。こうした神聖ローマ帝国は消滅するが、オーストリア大公の地位は残っており、初代オーストリア皇帝フランツ1世となった。
フランツ1世はメッテルニヒを登用し、ナポレオン戦争の戦後処理であるウィーン会議の主導権を握った。質素な生活を好み、晩年は国民からも親しみを込められて「善き皇帝フランツ」と称された。

その後、ナポレオンはプロイセンを破り、大陸とイギリスの貿易を禁止する大陸封鎖命令を出した。
1808年にはイベリア半島に侵攻し、各国に兄弟や親類を配置。1810年にはオーストリア皇帝の長女マリー・ルイーズと結婚し、大陸に君臨する皇帝になる。
左図はナポレオンが支配した最大版図である。
フランツ1世はメッテルニヒを登用し、ナポレオン戦争の戦後処理であるウィーン会議の主導権を握った。質素な生活を好み、晩年は国民からも親しみを込められて「善き皇帝フランツ」と称された。

その後、ナポレオンはプロイセンを破り、大陸とイギリスの貿易を禁止する大陸封鎖命令を出した。
1808年にはイベリア半島に侵攻し、各国に兄弟や親類を配置。1810年にはオーストリア皇帝の長女マリー・ルイーズと結婚し、大陸に君臨する皇帝になる。
左図はナポレオンが支配した最大版図である。
しかし、1812年のモスクワ遠征に失敗し、同年10月19日にモスクワを撤退することになる。ここからナポレオンの没落が始まる。諸国民解放戦争に敗れ、ついに1814年、地中海のエルバ島に流される。
1815年、エルバ島を脱出したナポレオンは再び帝位に就くが、ワーテルローの戦いに敗れ、わずか3ヶ月でセントヘレナに流される。ここでナポレオンは最期を迎える。

ナポレオンは戦争を繰り返したが、従軍する兵士を養う食料を保存するためのアイデアに莫大な懸賞金を用意した。この賞金を獲得したのが、菓子職人アベールの瓶詰めであった。

1882年に初演されたチャイコフスキーの「序曲1812年」は、祖国ロシア帝国がフランス軍に勝利したことを祝って作曲されたものである。
1815年、エルバ島を脱出したナポレオンは再び帝位に就くが、ワーテルローの戦いに敗れ、わずか3ヶ月でセントヘレナに流される。ここでナポレオンは最期を迎える。

ナポレオンは戦争を繰り返したが、従軍する兵士を養う食料を保存するためのアイデアに莫大な懸賞金を用意した。この賞金を獲得したのが、菓子職人アベールの瓶詰めであった。

1882年に初演されたチャイコフスキーの「序曲1812年」は、祖国ロシア帝国がフランス軍に勝利したことを祝って作曲されたものである。
この時代の世界
参考書籍
![]() |
ナポレオン大いに語る | ||
著者 | ナポレオン(1世)/フリードリヒ・ジーブルク | ||
出版社 | PHP研究所 | ||
サイズ | 単行本 | ||
発売日 | 2009年09月 | ||
価格 | 1,980円(税込) | ||
ISBN | 9784569709727 | ||
皇帝ナポレオンの“人間性”が、鮮やかに浮かび上がる生々しい対話録。 | |||
![]() |
ナポレオン自伝 | ||
著者 | ナポレオン(1世)/アンドレ・マルロー | ||
出版社 | 朝日新聞出版 | ||
サイズ | 単行本 | ||
発売日 | 2004年04月 | ||
価格 | 3,520円(税込) | ||
ISBN | 9784022579119 | ||
フランス革命期からセント=ヘレナ流刑までーナポレオンが遺したおびただしい文章、書簡、布告のエッセンスをマルローが選んでそのまま編集、英雄の人生をあざやかに復原した。 | |||
(この項おわり)