高麗の太祖・王建
西暦936年、王建が率いる高麗は後百済を滅ぼし、前年に帰順した新羅と合わせて後三国を統一した。王建は高麗の太祖である。統一は唐などの外部の大国の援軍によらず、和平的な帰順と軍事的制圧を組み合わせて達成された。高麗は1392年まで続くことになる。
後三国時代の終焉
高麗の太祖・王建による後三国統一(イメージ)
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「Korea」の語源と人々の統合
国号の「高麗」は、かつての高句麗を受け継ぐという姿勢を示す名称である。「高句麗」も5世紀ごろから「高麗」と称しており、Goryeo(Koryo)という呼び名が外国に伝わって、英語の「Korea」の語源になった。

高麗は、旧新羅や後百済の支配層を排除せず、地位や土地を与えて取り込んだ。また、926年に契丹が渤海を滅ぼすと、その王族を含む多くの遺民を受け入れた。渤海は高句麗系と靺鞨系などの人々からなる国であり、遺民すべてを単純に「高句麗系住民」とみなすことはできない。それでも、この受け入れは高麗が高句麗の後継を意識した政策の一つと考えられている。
高麗は、旧新羅や後百済の支配層を排除せず、地位や土地を与えて取り込んだ。また、926年に契丹が渤海を滅ぼすと、その王族を含む多くの遺民を受け入れた。渤海は高句麗系と靺鞨系などの人々からなる国であり、遺民すべてを単純に「高句麗系住民」とみなすことはできない。それでも、この受け入れは高麗が高句麗の後継を意識した政策の一つと考えられている。
豪族を取り込んだ国家づくり
仏教文化と技術
高麗大蔵経
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高麗では仏教が国家と王室の保護を受けた。契丹の侵入に際して11世紀に最初の大蔵経が作られたが、1232年のモンゴル侵攻で版木が焼失した。1236年から再び彫られた8万枚を超える版木が、現在の『高麗大蔵経』である。仏の力で国を守ろうとする願いと、高度な木版印刷技術を示している。
13世紀前半には金属製の活字を使った印刷が行われ、1234年ごろの記録が残る。現存する最古の金属活字本は1377年の『直指』で、ヨーロッパのグーテンベルクより早い。ただし、中国ではそれ以前に陶製などの活字が使われており、「世界初の活字印刷」ではなく「早い時期の金属活字実用化」と表すのが正確である。

高麗青磁は中国・宋の青磁技術を取り入れて発達し、12世紀から13世紀初めに最盛期を迎えた。器の表面を彫り、白や黒の土を埋め込む象嵌技法など、独自の表現が高く評価された。高麗は宋などとの海上交易も盛んで、開京近くの碧瀾渡には外国の商人が訪れた。
高麗青磁は中国・宋の青磁技術を取り入れて発達し、12世紀から13世紀初めに最盛期を迎えた。器の表面を彫り、白や黒の土を埋め込む象嵌技法など、独自の表現が高く評価された。高麗は宋などとの海上交易も盛んで、開京近くの碧瀾渡には外国の商人が訪れた。
北方諸国・モンゴルとの関係
高麗は北方の契丹(遼)と993年から1019年にかけて三度戦い、外交と抗戦によって王朝を守った。12世紀には女真が建てた金との関係を結び、13世紀にはモンゴル帝国の侵攻を受けた。王室は江華島へ移って抵抗したが、長い戦争で国土と人々は大きな被害を受けた。

1259年に高麗とモンゴルの講和が成立し、1270年に王室が開京へ戻ると、高麗は元の強い影響下に入った。王家と元皇室の婚姻が続き、元による日本遠征にも動員された。一方で王朝そのものは1392年まで存続し、文化や制度も保たれた。こうした歴史を現代の「民族意識」の起源と断定することは難しいが、度重なる外圧の中で政治的・文化的なまとまりが育ったことは確かである。
1259年に高麗とモンゴルの講和が成立し、1270年に王室が開京へ戻ると、高麗は元の強い影響下に入った。王家と元皇室の婚姻が続き、元による日本遠征にも動員された。一方で王朝そのものは1392年まで存続し、文化や制度も保たれた。こうした歴史を現代の「民族意識」の起源と断定することは難しいが、度重なる外圧の中で政治的・文化的なまとまりが育ったことは確かである。
参考サイト
- 後三国の統一:韓国史データベース「わたしたちの歴史ネット」
- 太祖:韓国民族文化大百科事典
- 200 years before Gutenberg: The master printers of Koryo:UNESCO
- Goryeo Celadon:メトロポリタン美術館
- Korea, 1000–1400 A.D.:メトロポリタン美術館
この時代の世界
(この項おわり)
