趙匡胤
宋は、五代十国時代の武断政治の反省から文治主義を実行した。節度使を順次廃止し、科挙により積極的に学識者を登用したのである。科挙の最終試験は殿試と呼ばれ、皇帝自身が試験官となるものであった。こうして、皇帝と師弟関係を結び、官僚に対する統制を強め、中央集権体制を確立した。
その一方で、軍事力が弱体化し、宋は周辺諸民族の侵入に苦慮することになる。

中国の再統一は一代で成された事業ではない。まず、五代一の名君と称される後周の柴栄が、軍事と内政の改革をおこない、南征に勝利して基礎を築いた。柴栄が若くして病死すると、軍の支持を受けた趙匡胤がクーデターを起こして後を継いだ。趙匡胤の政治を助けたのは、後の2代皇帝太宗と宰相の趙普であった。

同じころ、朝鮮半島でも分裂から統一へという流れが生じ、王建が高麗を建国している。
その一方で、軍事力が弱体化し、宋は周辺諸民族の侵入に苦慮することになる。
中国の再統一は一代で成された事業ではない。まず、五代一の名君と称される後周の柴栄が、軍事と内政の改革をおこない、南征に勝利して基礎を築いた。柴栄が若くして病死すると、軍の支持を受けた趙匡胤がクーデターを起こして後を継いだ。趙匡胤の政治を助けたのは、後の2代皇帝太宗と宰相の趙普であった。
同じころ、朝鮮半島でも分裂から統一へという流れが生じ、王建が高麗を建国している。
統一に至る経緯
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世界史としてのポイント
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統一によって、唐の滅亡から70年余り続いた分裂と武断政治の時代が終わった。宋は、軍人が政権を左右する事態を防ぐため、皇帝直属の禁軍を強化し、節度使の権限を段階的に取り上げていく。太祖は禁軍の最高職である殿前都点検を廃止し、軍を三つに分けて皇帝だけが全軍を統率する形に改めた。将軍たちを宴席に招いて兵権を返上させたという「杯酒釈兵権」の話も伝えられている。
文官を重んじる文治主義の柱となったのが科挙である。宋は州試・礼部試・殿試の三段階を整え、最終試験の殿試では皇帝自身が試験官となった。合格者は皇帝が自ら選んだ官僚だという意識を持つようになり、皇帝の独裁体制を支えることになる。唐代には毎年30人ほどだった合格者は、宋代には3年に1度の試験で1回に300~400人へと増えた。

その結果、魏晋南北朝以来、政治を握ってきた門閥貴族は力を失い、科挙を通った新しい知識人層である士大夫が支配層となった。彼らは地主や商人としての経済力と儒教の教養を併せ持ち、官僚として政治を担った。唐から宋にかけて起きたこの大きな社会の組み替えを、歴史学では唐宋変革と呼んでいる。
その結果、魏晋南北朝以来、政治を握ってきた門閥貴族は力を失い、科挙を通った新しい知識人層である士大夫が支配層となった。彼らは地主や商人としての経済力と儒教の教養を併せ持ち、官僚として政治を担った。唐から宋にかけて起きたこの大きな社会の組み替えを、歴史学では唐宋変革と呼んでいる。
周辺国への影響
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1004年(長保6年)、遼の聖宗と承天皇太后が20万の軍で南下すると、宋は澶淵の盟を結んで戦いを収めた。国境は現状のまま、宋を兄・遼を弟とする兄弟の関係とし、宋が毎年、銀10万両と絹20万匹を歳幣として遼へ贈るという内容である。1042年(長久3年)にはそれぞれ10万ずつ増額された。武力ではなく財貨で平和を買う外交は、のちの西夏や金に対しても繰り返されることになる。

領土の拡大に向かわなかった分、経済と文化の交流は活発になった。宋は高麗と朝貢関係を保ち、日本との間に正式な国交はなかったが、民間の海上交易である日宋貿易が盛んになる。日本からは木材・硫黄・砂金・刀剣が運ばれ、宋からは陶磁器・絹織物・仏典・宋銭がもたらされた。博多には多くの宋人が住みつき、大量に流入した宋銭は日本の貨幣経済を進める役割を果たした。
領土の拡大に向かわなかった分、経済と文化の交流は活発になった。宋は高麗と朝貢関係を保ち、日本との間に正式な国交はなかったが、民間の海上交易である日宋貿易が盛んになる。日本からは木材・硫黄・砂金・刀剣が運ばれ、宋からは陶磁器・絹織物・仏典・宋銭がもたらされた。博多には多くの宋人が住みつき、大量に流入した宋銭は日本の貨幣経済を進める役割を果たした。
後世への影響
統一による平和と、商業を重んじる政策のもとで、宋の経済は大きく伸びた。農地が広がり、麦と稲の二毛作や稲の二期作が普及し、人口は世界で初めて1億を超えたとみられている。首都の開封(汴京)は人口100万を超え、四本の運河が城内に引き込まれた物流の中心で、夜市や芝居小屋がにぎわった。銅銭の鋳造量は11世紀後半に年500万貫を超え、交子と呼ばれる紙幣も使われはじめた。

技術も広まった。木版印刷によって経書や史書が大量に流通し、11世紀半ばには畢昇が膠泥の活字を並べる活版印刷を考え出した。唐代に道家の手で生まれた火薬は宋代に兵器として実用化され、磁石の指極性を使う羅針盤は11世紀末には貿易船に備えられていた。これらはイスラム圏を経てヨーロッパへ伝わり、世界を変える技術となる。

士大夫が学問の担い手になったことで、儒学も新しくなった。北宋では司馬光が『資治通鑑』を編み、王安石が財政と軍制の改革(新法)を進めた。南宋の朱熹は経典の解釈を体系づけて朱子学を打ち立てる。朱子学はのちに科挙の基準となり、朝鮮王朝では国家の統治理念として、日本の江戸時代では武士の道徳規範として受け入れられた。

皇帝に権力を集め、科挙で選んだ官僚が実務を担うという宋の統治のしくみは、明・清へ受け継がれ、中国の国家運営の標準となった。その一方、軍事を抑えた体制は北方の圧力に弱く、1127年(大治2年)には金に開封を奪われ、宋は江南へ移って南宋となる。統一を成し遂げた宋が同時に抱えこんだ弱点は、王朝の最後までついてまわった。
技術も広まった。木版印刷によって経書や史書が大量に流通し、11世紀半ばには畢昇が膠泥の活字を並べる活版印刷を考え出した。唐代に道家の手で生まれた火薬は宋代に兵器として実用化され、磁石の指極性を使う羅針盤は11世紀末には貿易船に備えられていた。これらはイスラム圏を経てヨーロッパへ伝わり、世界を変える技術となる。
士大夫が学問の担い手になったことで、儒学も新しくなった。北宋では司馬光が『資治通鑑』を編み、王安石が財政と軍制の改革(新法)を進めた。南宋の朱熹は経典の解釈を体系づけて朱子学を打ち立てる。朱子学はのちに科挙の基準となり、朝鮮王朝では国家の統治理念として、日本の江戸時代では武士の道徳規範として受け入れられた。
皇帝に権力を集め、科挙で選んだ官僚が実務を担うという宋の統治のしくみは、明・清へ受け継がれ、中国の国家運営の標準となった。その一方、軍事を抑えた体制は北方の圧力に弱く、1127年(大治2年)には金に開封を奪われ、宋は江南へ移って南宋となる。統一を成し遂げた宋が同時に抱えこんだ弱点は、王朝の最後までついてまわった。
参考サイト
- 趙匡胤:コトバンク
- 太宗:コトバンク
- 趙普:コトバンク
- 科挙:コトバンク
- 澶淵の盟:コトバンク
- 開封:コトバンク
- 四大発明:コトバンク
- 畢昇:コトバンク
- 火薬:コトバンク
- 羅針盤:コトバンク
- 西暦907年 - 唐が滅ぶ:ぱふぅ家のホームページ
- 西暦936年 - 高麗による朝鮮半島統一:ぱふぅ家のホームページ
- 西暦1070年 - 王安石の改革:ぱふぅ家のホームページ
- 西暦1115年 - 金の建国:ぱふぅ家のホームページ
- 西暦1127年 - 南宋の建国:ぱふぅ家のホームページ
この時代の世界
(この項おわり)

979年(天元2年)、2代皇帝・太宗により五代十国の混乱が収束し、中国は再統一される。