
宋は、五代十国時代の武断政治の反省から文治主義を実行した。節度使を順次廃止し、科挙により積極的に学識者を登用したのである。科挙の最終試験は殿試と呼ばれ、皇帝自身が試験官となるものであった。こうして、皇帝と師弟関係を結び、官僚に対する統制を強め、中央集権体制を確立した。
その一方で、軍事力が弱体化し、宋は周辺諸民族の侵入に苦慮することになる。

中国の再統一は一代で成された事業ではない。まず、五代一の名君と称される後周の柴栄が、軍事と内政の改革をおこない、南征に勝利して基礎を築いた。柴栄が若くして病死すると、軍の支持を受けた越匡胤がクーデターを起こして後を継いだ。越匡胤の政治を助けたのは、後の2代皇帝太宗と宰相の趙普であった。

同じころ、朝鮮半島でも分裂から統一へという流れが生じ、王建が高麗を建国している。
その一方で、軍事力が弱体化し、宋は周辺諸民族の侵入に苦慮することになる。

中国の再統一は一代で成された事業ではない。まず、五代一の名君と称される後周の柴栄が、軍事と内政の改革をおこない、南征に勝利して基礎を築いた。柴栄が若くして病死すると、軍の支持を受けた越匡胤がクーデターを起こして後を継いだ。越匡胤の政治を助けたのは、後の2代皇帝太宗と宰相の趙普であった。

同じころ、朝鮮半島でも分裂から統一へという流れが生じ、王建が高麗を建国している。
この時代の世界
(この項おわり)
979年(天元2年)、2代皇帝・太宗により五代十国の混乱が収束し、中国は再統一される。