
セルジューク朝の国章
セルジューク朝の成立
セルジュークの孫とされるトグリル・ベクは、1038年にセルジューク朝を創始すると、1050年にイランの大部分を支配し、スルタンを名乗るようになる。
トグリル・ベクは、同じスンナ派のアッバース朝と友好関係を築くと、1055年、バグダッドを陥落させ、シーア派のブワイフ朝を倒した。

セルジューク朝はトルコ系の遊牧部族が軍事力の中心となっていたが、同じトルコ人を奴隷軍人マムルークとしても利用していた。また官僚として登用されたのはイラン人が多く、政治や学問で王朝を支え、いわゆるイラン=イスラーム文化が開花した。

遊牧民族であるスルタンは移動しながら生涯を終えたため、セルジューク朝には固定された首都がなかった。
トグリル・ベクは、同じスンナ派のアッバース朝と友好関係を築くと、1055年、バグダッドを陥落させ、シーア派のブワイフ朝を倒した。

セルジューク朝はトルコ系の遊牧部族が軍事力の中心となっていたが、同じトルコ人を奴隷軍人マムルークとしても利用していた。また官僚として登用されたのはイラン人が多く、政治や学問で王朝を支え、いわゆるイラン=イスラーム文化が開花した。

遊牧民族であるスルタンは移動しながら生涯を終えたため、セルジューク朝には固定された首都がなかった。
第1回十字軍
第2代スルタンのアルプ・アルスラーンは、小アジア(アナトリア)に進出し、1071年、マンジケルトの戦いでビザンツ帝国軍を破り、皇帝を捕虜とした。
これによって小アジアのトルコ化が進み、ビザンツ帝国にとって大きな脅威となりはじめた。
聖地エルサレムへの巡礼が困難になったとして、東ローマ皇帝アレクシオス1世コムネノスがローマ教皇ウルバヌス2世に救援を求めた。ウルバヌス2世は、1095年にクレルモン公会議を開催し、ヨーロッパ諸侯の協力を取り付けた。そして1096年、十字軍を結成し、聖地奪回に乗り出した。
これによって小アジアのトルコ化が進み、ビザンツ帝国にとって大きな脅威となりはじめた。
聖地エルサレムへの巡礼が困難になったとして、東ローマ皇帝アレクシオス1世コムネノスがローマ教皇ウルバヌス2世に救援を求めた。ウルバヌス2世は、1095年にクレルモン公会議を開催し、ヨーロッパ諸侯の協力を取り付けた。そして1096年、十字軍を結成し、聖地奪回に乗り出した。
マリク・シャーの時代
1072年、マリク・シャーがスルタンに即位すると、宰相ニザーム・アルムルクのもとでセルジューク朝は最盛期を迎える。
イクター制という軍事・土地制度を整備する一方、ニザーミーヤ学院を創設し学問を保護した。アラビア文学を代表する『ルバイヤート』の作者として知られる科学者ウマル・ハイヤームが活躍した。ニザーミーヤ学院の教授であったガザーリーは、イスラーム教の神秘主義(スーフィズム)を理論化し、スーフィーによる伝道が盛んに行われるようになった。
イクター制という軍事・土地制度を整備する一方、ニザーミーヤ学院を創設し学問を保護した。アラビア文学を代表する『ルバイヤート』の作者として知られる科学者ウマル・ハイヤームが活躍した。ニザーミーヤ学院の教授であったガザーリーは、イスラーム教の神秘主義(スーフィズム)を理論化し、スーフィーによる伝道が盛んに行われるようになった。
セルジューク朝の衰退・消滅
12世紀に入ると、ケルマーン、ルーム・セルジューク(小アジア)、シリア、イラクなど4つの地方政権に分裂し衰退する。1141年には東方から移動してきたカラ・キタイ(西遼)に敗れる。
13世紀に入ると、モンゴル帝国フラグの侵入を受けてイル・ハン国が成立し、その支配下に入り消滅した。
13世紀に入ると、モンゴル帝国フラグの侵入を受けてイル・ハン国が成立し、その支配下に入り消滅した。
この時代の世界
(この項おわり)
セルジューク族は、トルコ系民族オグズ族を起源とし、アラル海に注ぐシル川の下流(現在のカザフスタン)で遊牧生活を営んでいた。スンナ派イスラームを信奉し、10世紀末には南下してサーマーン朝に仕えるようになった。セルジュークは、一族の伝説的な始祖の名前である。