西暦1077年 - カノッサの屈辱

叙任権闘争は1122年まで続く
カノッサの屈辱
神聖ローマ帝国ハインリヒ4世はローマ教皇グレゴリウス7世による破門の解除を願い、雪が降りしきる中、1077年1月25日から3日間、カノッサ城門にて裸足のまま断食と祈りを続けるというカノッサの屈辱が起きた。
ハインリヒ4世は、北イタリアにおける影響力を増すために、自分の子飼いの司祭たちをミラノ大司教、フェルモやスポレトの司教などに次々と任命した。
これに対してローマ教皇グレゴリウス7世は、司教の任命権が君主ではなく教会にあることを通達したが、ハインリヒ4世は聞き入れなかった。こうして叙任権闘争が起きる。
グレゴリウス7世は皇帝の破門と皇帝権の剥奪をほのめかしたため、ハインリヒ4世は激怒し、1076年1月に独自の教会会議を開いて教皇の廃位を宣言した。2月に入りグレゴリウス7世は、ハインリヒ4世の破門と王位の剥奪を宣言した。

これを契機にドイツ諸侯はハインリヒ4世に反旗を翻し、1077年2月2日までに破門が解かれない場合にはアウクスブルクにおいて会議を開いて新しいドイツ王を決めることを決定した。
危機感を募らせたハインリヒ4世は、使者を送って教皇に許しを乞うた。教皇がこれを拒絶したため、皇帝自らが謝罪することになった。

カノッサの屈辱により破門を解かれたハインリヒ4世はドイツに戻り、直ちに反対派の諸侯を制圧し王権を確立した。

その後、ハインリヒ4世とグレゴリウス7世は再び叙任権闘争を起こすが、今度はハインリヒ4世が軍勢を率いてローマを囲み、脱出した教皇は1085年にサレルノで客死する。
叙任権闘争は、ドイツ南部のヴォルムスで叙任権は教皇にあることを定めた協約(ヴォルムス協約)が成立する1122年まで続いた。ヴォルムス協約により、皇帝が統治する俗界と、教皇が支配する聖界の分離をうながし、後の政教分離につながった。

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