11世紀半ば、陸奥国の豪族・安倍氏が朝廷への貢租を怠るようになったため、1051年(永承6年)、陸奥守藤原登任が出兵、前九年の役が勃発する。
緒戦は安部氏の圧勝で、登任は更迭。代わりに源頼義が陸奥守となる。ちょうど、後冷泉天皇の祖母・上東門院(藤原彰子)の病気回復の恩赦にともない、安部氏の罪も赦されることになった。
しかし、頼義の陸奥守としての任期が終わる1056年(天喜4年)2月、謀略事件が発生し、再び朝廷と安部氏は戦闘状態に突入した。

1057年(天喜5年)7月、安部頼時が戦死するが、貞任が後を継ぎ、頼義軍に大勝する。
1062年(康平5年)、陸奥守に再任された頼義は出羽国の豪族・清原氏に参戦を要請。
清原氏の参戦によって形勢は朝廷側に有利となり、9月には貞任が戦死し、安部氏は滅亡した。頼時の娘婿の豪族・藤原経清も戦死する。

清原氏のリーダー武則は戦功により朝廷から鎮守府将軍に任じられ、奥羽の覇者となった。
藤原経清の妻(頼時の娘)は清原武貞の妻となり、経清の遺児(後の藤原清衡)とともに清原氏に引き取られた。このことが後三年の役の遠因となる。
しかし、頼義の陸奥守としての任期が終わる1056年(天喜4年)2月、謀略事件が発生し、再び朝廷と安部氏は戦闘状態に突入した。

1057年(天喜5年)7月、安部頼時が戦死するが、貞任が後を継ぎ、頼義軍に大勝する。
1062年(康平5年)、陸奥守に再任された頼義は出羽国の豪族・清原氏に参戦を要請。
清原氏の参戦によって形勢は朝廷側に有利となり、9月には貞任が戦死し、安部氏は滅亡した。頼時の娘婿の豪族・藤原経清も戦死する。

清原氏のリーダー武則は戦功により朝廷から鎮守府将軍に任じられ、奥羽の覇者となった。
藤原経清の妻(頼時の娘)は清原武貞の妻となり、経清の遺児(後の藤原清衡)とともに清原氏に引き取られた。このことが後三年の役の遠因となる。
この時代の世界
(この項おわり)