完顔阿骨打
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征服王朝としての急成長
急速に領土を広げる金軍(イメージ)
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金は、北方の遊牧・狩猟民が中国の一部、あるいは全土を征服して打ち立てた王朝を指す「征服王朝」の代表例のひとつに数えられる。女真族はもともと遼に服属する狩猟民族に過ぎなかったが、完顔阿骨打の建国からわずか10年で遼を滅ぼし(1125年)、その2年後には北宋をも滅ぼして(1127年)華北の広い領域を版図に収めるという急成長を遂げた。
騎馬民族と漢民族王朝の戦力差
行政と軍事を兼ねた猛安・謀克制の騎兵(イメージ)
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女真族は、猛安・謀克制と呼ばれる軍事・行政制度を敷いていた。300戸を1謀克、10謀克(3000戸)を1猛安としてまとめ、平時は行政単位として、戦時にはそのまま騎兵部隊として機能させる仕組みで、強靭な軍事力を生み出した。一方、金に滅ぼされた遼は、末期には内紛や統治の弛みで往時の精悍さを失っており、新興の金に圧倒された。
漢民族の王朝である北宋は、節度使による地方軍閥の台頭を防ぐため、皇帝が軍事権を握る文治主義を国是としていた。中央の禁軍は数十万規模にふくれ上がったが、実戦経験に乏しく統制も緩んでおり、北方民族に対しては歳幣(毎年の贈り物)を送って平和を買う外交に頼っていた。この軍事的な弱さが、金の南下を招く一因となった。
周辺諸国への影響
金軍に攻略される開封(イメージ)
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金は北宋と同盟(海上の盟、1120年)を結んで1125年(天治2年)に遼を滅ぼしたが、まもなく対立に転じ、1127年(大治2年)に「靖康の変」を起こして開封を陥落させ、北宋を滅ぼした。逃れた宋の皇族は江南で「南宋」を再興し、中国は南北に分裂した状態が続くことになる。
後世への影響
金の都・中都となった燕京(イメージ)
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金は当初、都を上京会寧府(現在の黒竜江省ハルビン付近)に置いていたが、1153年(仁平3年)、海陵王の代に都を燕京(現在の北京)へ移し、「中都」と改称した。これが、北京が中国全土・北方統治の拠点として本格的に機能し始める端緒となった。
17世紀、女真族(満洲族)のヌルハチが再び諸部族をまとめ、1616年(元和2年)に「後金」(アイシン国)を建てた。これは、かつての金にちなんだ国号で、女真族の栄光を意識したものとされる。後金はのちに国号を「清」と改め、17世紀半ばには中国全土を支配する大帝国へと発展した。
この時代の世界
(この項おわり)

その後領土を拡大、華北に進出し、宋と結んで遼を攻撃した。その支配した領域では猛安・謀克制をしき、また女真文字を制定した。