
1248年、フランス王ルイ9世が率いる第7回十字軍がエジプト侵攻してきた。エジプトのアイユーブ朝のスルタン、サーリフが急死したため、1250年に将軍ファフルッディーン・ユースフとマムルークのバイバルスが交戦し、マンスーラの戦いが起きる。ルイ9世がアイユーブ軍の捕虜となり戦争は終結した。
サーリフの夫人だった奴隷身分出身のシャジャル・アッ=ドゥッルがスルターンに即位してマムルーク朝を創始するが、長くは続かず、1260年、モンゴル帝国のフラグを撃退すると、バイバルスがスルタンに即位する。

マムルークとは、奴隷を解放して軍人としての教育を施したものだ。身寄りがないため、主人に忠誠を誓う彼らは、団結と統制を武器に、精強な部隊となる。やがて、マムルーク軍団は君主の側近として権力を持つようになる。

マムルークとは、奴隷を解放して軍人としての教育を施したものだ。身寄りがないため、主人に忠誠を誓う彼らは、団結と統制を武器に、精強な部隊となる。やがて、マムルーク軍団は君主の側近として権力を持つようになる。
クーデター
アイユーブ朝の第8代スルタン、トゥーラーン・シャーは、第6回十字軍を撃退し、フランス王ルイ9世を捕虜にした。だが、戦いの主力となったマムルークを冷遇したため、マムルークによるクーデターが起きた。1250年、30才の青年将校バイバルスは、トゥーラーン・シャーを殺害した。この年をもってマムルーク朝が始まる。

マムルークの将軍たちはアイユーブ朝の権威を利用しようとし、スルタンの妻シャジャルを担ぎ出し、彼女を女性スルタン(スルタナ)とした。彼女は間もなくマムルークの一人アイバクと結婚し、彼にスルタンの称号を授けた。しかし、マムルークたちは互いに反目し政権は動揺した。

マムルークの将軍たちはアイユーブ朝の権威を利用しようとし、スルタンの妻シャジャルを担ぎ出し、彼女を女性スルタン(スルタナ)とした。彼女は間もなくマムルークの一人アイバクと結婚し、彼にスルタンの称号を授けた。しかし、マムルークたちは互いに反目し政権は動揺した。
アイン・ジャールートの戦い
そんな中、モンゴル帝国のフラグが西アジアに進出してきた。1258年、フラグはバグダードを攻略し、アッバース朝のカリフを殺害した。
モンゴルの脅威に立ち向かうため、マムルーク朝はバイバルスを中心に結束し、1260年、アイン・ジャールートの戦いでフラグを撃退した。功労者であるバイバルスは第5代スルタンとなり、以降はバイバルスの子たちにスルタン位が世襲される。

マムルーク朝は、1291年、十字軍の建てたエルサレム王国の最後の拠点アッコン(アッカ)を攻略し、キリスト教勢力を西アジアから一掃した。
モンゴルの脅威に立ち向かうため、マムルーク朝はバイバルスを中心に結束し、1260年、アイン・ジャールートの戦いでフラグを撃退した。功労者であるバイバルスは第5代スルタンとなり、以降はバイバルスの子たちにスルタン位が世襲される。

マムルーク朝は、1291年、十字軍の建てたエルサレム王国の最後の拠点アッコン(アッカ)を攻略し、キリスト教勢力を西アジアから一掃した。
首都カイロの繁栄
首都カイロは国際的な商業都市として繁栄し、その商人はカーリミー商人と言われてアラビア海方面で活躍した。
農業生産力も向上し、小麦・大麦などの主産物に加えて、サトウキビの栽培とそれを原料とした砂糖の生産が増え、主要な輸出品となった。
マムルーク朝は東西交易のルートを握り、16世紀初頭までインド洋交易圏でのダウ船による海上貿易を支配した。

マムルーク朝は一貫した王朝ではあるが、いくつかの例外を除き王位の世襲は行われず、マムルーク軍人中の有力者がスルターンに就き、1517年まで続く。
農業生産力も向上し、小麦・大麦などの主産物に加えて、サトウキビの栽培とそれを原料とした砂糖の生産が増え、主要な輸出品となった。
マムルーク朝は東西交易のルートを握り、16世紀初頭までインド洋交易圏でのダウ船による海上貿易を支配した。

マムルーク朝は一貫した王朝ではあるが、いくつかの例外を除き王位の世襲は行われず、マムルーク軍人中の有力者がスルターンに就き、1517年まで続く。
衰退と滅亡
この時代の世界
(この項おわり)