
南宋の時代、ヴェトナムから導入した米の新品種により二毛作・二期作を実現するとともに、羅針盤を備えた外洋船で海上貿易も栄えた。こうして豊かになった南宋は、その財力によって辛うじて北方民族の侵入を防いでいた。
南宋では対金政策をめぐって議論が起こったが、和平派が勝利して、多額の貢納と引き替えに和約が結ばれた。

また、朱熹が儒学を整理し、朱子学を創始する。
朱子学は「万物の根源は理と気にある」という世界観のもと、四書(「大学」「中庸」「論語」「孟子」)を重視した。朱子学は鎌倉時代の日本に伝わり、武士に受け入れられ、江戸時代には幕府の正式な学問となる。
朱熹は科挙官僚だったが、仕事を嫌い、名目上の職について学問に没頭することを望んだ。
たいへん身勝手な男で、学説と行動は必ずしも一致しないものである。
なお、北宋滅亡に先だって、契丹族の遼も滅んでいる。
遼の皇族だった耶律大石は、西へ逃れて西遼を建て、セルジューク朝を破って、中央アジアに覇権を築いた。
南宋では対金政策をめぐって議論が起こったが、和平派が勝利して、多額の貢納と引き替えに和約が結ばれた。

また、朱熹が儒学を整理し、朱子学を創始する。
朱子学は「万物の根源は理と気にある」という世界観のもと、四書(「大学」「中庸」「論語」「孟子」)を重視した。朱子学は鎌倉時代の日本に伝わり、武士に受け入れられ、江戸時代には幕府の正式な学問となる。
朱熹は科挙官僚だったが、仕事を嫌い、名目上の職について学問に没頭することを望んだ。
たいへん身勝手な男で、学説と行動は必ずしも一致しないものである。
なお、北宋滅亡に先だって、契丹族の遼も滅んでいる。
遼の皇族だった耶律大石は、西へ逃れて西遼を建て、セルジューク朝を破って、中央アジアに覇権を築いた。
この時代の世界
(この項おわり)
金は宋と手を組んで北方の遼(契丹)を滅ぼす。
しかし、その後両者は対立し、1127年には金が宋の首都である開封を占領し、宋(北宋)が滅びる。
このとき、皇帝の弟である高宗が臨安(現在の杭州)を首都とする南宋を建国する。
金と江南に逃れた南宋が、淮河をはさんでにらみ合う状況となった。