
1721年、第一大蔵卿に就任したロバート・ウォルポールは、与党を統制して閣議を主宰し、議会の支持を背景に政治を行った。また、国王ジョージ1世は英語が話せず、国政をウォルポールに任せた。やがてウォルポールはプライム・ミニスター(閣僚の第一人者)を呼ばれるようになり、これが後に内閣総理大臣を意味にするようになる。ウォルポールは、イギリス最初の首相と呼ばれる所以である。プライム・ミニスターが制度として成立するのは1907年のことである。

ウォルポールは、ケンブリッジ大学を卒業後、1701年にホイッグ党の庶民院議員に当選して政界入りした。1720年、投機ブームによる株価の急騰と暴落を起こした「南海泡沫事件」(バブル経済の語源となった)の混乱を収拾して頭角を現し、1721年に第一大蔵卿に就任した。第一大蔵卿とは、イギリスの国庫を預かる大蔵卿委員会の委員長のことである。

ウォルポールは20年に及ぶ長期安定政権を築き、対外戦争を避け、重商主義政策をとって、大英帝国への発展を準備した。
1742年、議会(下院)内で反対派が多数を占めると、ウォルポールは王や上院の支持があったにもかかわらず潔く辞任した。これが、議会で多数を占める党派の党首が内閣を組織するという責任内閣制の先例が開かれることになった。

ウォルポールは、ケンブリッジ大学を卒業後、1701年にホイッグ党の庶民院議員に当選して政界入りした。1720年、投機ブームによる株価の急騰と暴落を起こした「南海泡沫事件」(バブル経済の語源となった)の混乱を収拾して頭角を現し、1721年に第一大蔵卿に就任した。第一大蔵卿とは、イギリスの国庫を預かる大蔵卿委員会の委員長のことである。

ウォルポールは20年に及ぶ長期安定政権を築き、対外戦争を避け、重商主義政策をとって、大英帝国への発展を準備した。
1742年、議会(下院)内で反対派が多数を占めると、ウォルポールは王や上院の支持があったにもかかわらず潔く辞任した。これが、議会で多数を占める党派の党首が内閣を組織するという責任内閣制の先例が開かれることになった。
この時代の世界
(この項おわり)
20年に及ぶ長期安定政権は、イギリスを大英帝国へ発展させるきっかけとなった。