
御殿場市から見た富士山の宝永火口
宝永地震の余震が続く中の宝永4年11月22日(1707年12月15日)の夜、富士山の山麓一帯では強い地震が数十回起こった。翌23日(16日)の10時頃、富士山の南東斜面から白い雲のようなものが湧き上がり急速に大きくなっていった。宝永の大噴火の始まりである。
溶岩の流下こそなかったものの、大量の火山灰が噴出し、100km離れた江戸でも積もった。
噴火は富士山の東南斜面で起こり、3つの火口が形成された。現在の宝永山である。

これ以降、富士山は噴火していないが、現在も活火山の扱いとなっている。
噴火は富士山の東南斜面で起こり、3つの火口が形成された。現在の宝永山である。

これ以降、富士山は噴火していないが、現在も活火山の扱いとなっている。
この時代の世界
(この項おわり)
烈震以上の地域が東海道から四国西端にまで及び、大津波が房総半島から九州に至る太平洋沿岸を襲ったことが分かっている。死者2万人、家屋の倒壊約6万戸、流失約2万戸といわれる。
この地震の規模はマグニチュード8.6~8.7と推定され、東海地震・東南海地震・南海地震が同時期に起きたと考えられている。