西暦1688年 - 名誉革命

イギリス市民革命の完成
権利の章典
イギリスでは、ピューリタン革命と王政復古を経て即位したチャールズ2世と、次のジェームス2世は、再び議会と対立するようになった。

そこで、1688年(貞享5年)、ジェームズ2世を退位させ、その娘メアリーと夫のオラニエ公ウェレムによる共同統治を目指したクーデターが起こる。
オランダ軍がロンドンに迫ると、ジェームズ2世の軍隊は闘わずして降伏していく。不利を悟ったジェームズ2世は王妃と王子をフランスに亡命させ、1688年(元禄元年)12月11日、自らも亡命しようとするが、ケントで捕らえられてしまう。
その後、議会はメアリーの立場を重んじてジェームズ2世を処刑せず、亡命を認めた。
イングランドでは無血革命となったことから、後に「名誉革命」と呼ばれるようになった。
1689年(元禄2年)2月13日、ウィリアム3世とメアリー2世は即位すると、王権に対する議会の優位を認める「権利の宣言」に署名し、「権利の章典」として発布された。権利の章典は憲法に相当する内容で、イギリス国王は「君臨すれども統治せず」という立憲君主制がスタートする。
メアリー2世は1694年(元禄7年)に天然痘で死亡し、以後、ウィリアム3世の単独統治となる。1702年(元禄15年)にウィリアム3世が死去すると、権利の章典の定めにより、メアリー2世の妹のアン女王が即位した。
アン女王が1714年(正徳4年)に死去するとステュアート朝は断絶し、遠縁にあたるドイツのハノーバー選帝侯が迎えられ、ハノーバー朝のジョージ1世となる。しかし英語をほとんど話すことができなかったため、政治は内閣が担当し、議会に責任を負う「責任内閣制」が誕生する。

イギリス市民革命の流れ

  1. ステュアート朝の成立
  2. ピューリタン革命
  3. クロムウェルの独裁
  4. 王政復古
  5. 名誉革命
  6. ハノーバー朝の成立

この時代の世界

1575 1625 1675 1725 1775 1688 名誉革命 1633 1701 ジェームズ2世 1650 1702 ウィリアム3世 1662 1694 メアリー2世 1649 ピューリタン革命 1630 1685 チャールズ2世 1709 アン法の制定 1665 1714 アン 1660 1727 ジョージ1世 1710 マイセン陶磁器製作所の創立 1713 ユトレヒト条約 1666 万有引力の法則 1642 1727 ニュートン 1675 グリニッジ天文台の創設 1651 「リヴァイアサン」の出版 1588 1679 トマス・ホッブズ 1632 1704 ジョン・ロック 1638 1683 マリー・テレーズ 1638 1715 ルイ14世 1676 光速の計算 1644 1710 オーレ・レーマー 1638 1715 ルイ14世 1684 ライプニッツの微積分法 1646 1716 ライプニッツ 1689 ネルチンスク条約 1654 1722 康煕帝 1678 1735 雍正帝 1648 清の建国 1617 1682 ダライ・ラマ5世 1646 1709 徳川綱吉 1685 生類憐れみの令 1658 1714 柳沢吉保 1702 赤穂浪士の討ち入り 1707 宝永の大噴火 1707 宝永地震 1662 1712 徳川家宣 1642 1693 井原西鶴 1689 おくのほそ道 1644 1694 松尾芭蕉 1653 1724 近松門左衛門 1657 1725 新井白石 1623 1696 明正天皇 1688 1747 ナーディル・シャー 1672 1725 ピョートル1世 1721 ロシア帝政始まる 1668 スウェーデン国立銀行の開業 1692 セイラム魔女裁判はじまる 1702 1713 アン女王戦争 1722 イースター島の発見 Tooltip
(この項おわり)
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