
1689年(元禄2年)2月13日、ウィリアム3世とメアリー2世は即位すると、王権に対する議会の優位を認める「権利の宣言」に署名し、「権利の章典」として発布された。権利の章典は憲法に相当する内容で、イギリス国王は「君臨すれども統治せず」という立憲君主制がスタートする。
メアリー2世は1694年(元禄7年)に天然痘で死亡し、以後、ウィリアム3世の単独統治となる。1702年(元禄15年)にウィリアム3世が死去すると、権利の章典の定めにより、メアリー2世の妹のアン女王が即位した。
メアリー2世は1694年(元禄7年)に天然痘で死亡し、以後、ウィリアム3世の単独統治となる。1702年(元禄15年)にウィリアム3世が死去すると、権利の章典の定めにより、メアリー2世の妹のアン女王が即位した。
アン女王が1714年(正徳4年)に死去するとステュアート朝は断絶し、遠縁にあたるドイツのハノーバー選帝侯が迎えられ、ハノーバー朝のジョージ1世となる。しかし英語をほとんど話すことができなかったため、政治は内閣が担当し、議会に責任を負う「責任内閣制」が誕生する。
この時代の世界
(この項おわり)
そこで、1688年(貞享5年)、ジェームズ2世を退位させ、その娘メアリーと夫のオラニエ公ウェレムによる共同統治を目指したクーデターが起こる。
オランダ軍がロンドンに迫ると、ジェームズ2世の軍隊は闘わずして降伏していく。不利を悟ったジェームズ2世は王妃と王子をフランスに亡命させ、1688年(元禄元年)12月11日、自らも亡命しようとするが、ケントで捕らえられてしまう。
その後、議会はメアリーの立場を重んじてジェームズ2世を処刑せず、亡命を認めた。
イングランドでは無血革命となったことから、後に「名誉革命」と呼ばれるようになった。