
ルイ14世の肖像 - イアサント・リゴー(大塚美術館)
スペイン継承戦争

狩猟服姿のフェリペ4世 - ベラスケス
スペイン・ハプスブルク家はヨーロッパ屈指の名門で、そのプライドの高さがゆえに、格下の諸侯とは結婚せず、近親婚が繰り返された。

1621年、16歳で即位したフェリペ4世 は44年にわたる長い治世で、歴史に残るほどの功績は残さなかったが、善良な政策により国民から愛され、ディエゴ・ベラスケスやピーテル・パウル・ルーベンスといった芸術家を保護して多くの傑作を後世に残している。彼の美術コレクションは後のプラド美術館の礎となった。

1621年、16歳で即位したフェリペ4世 は44年にわたる長い治世で、歴史に残るほどの功績は残さなかったが、善良な政策により国民から愛され、ディエゴ・ベラスケスやピーテル・パウル・ルーベンスといった芸術家を保護して多くの傑作を後世に残している。彼の美術コレクションは後のプラド美術館の礎となった。

王太子バルタサール・カルロス騎馬像 - ベラスケス
1629年、フェリペ4世と最初の妃イサベル・デ・ボルボンの間に、長男バルタサール(アストゥリアス公)が生まれた。
近親婚の影響だろうか、2人の間に産まれた4人の赤ん坊は夭折しており、、フェリペ4世は王太子としてバルタサールを大切に育てた。

ベラスケスは、バルタサール王太子の成長を描き続けた。この絵は、バルタサール王太子が6歳に描かれたものだ。明るく晴れ渡った空は、スペイン・ハプスブルク家の未来を示しているようだ。
近親婚の影響だろうか、2人の間に産まれた4人の赤ん坊は夭折しており、、フェリペ4世は王太子としてバルタサールを大切に育てた。

ベラスケスは、バルタサール王太子の成長を描き続けた。この絵は、バルタサール王太子が6歳に描かれたものだ。明るく晴れ渡った空は、スペイン・ハプスブルク家の未来を示しているようだ。

ラス・メニーナス 女官たち - ベラスケス(大塚美術館)
1638年、フェリペ4世とイサベルの間に最後の子どもとなるマルガリータが産まれる。
ベラスケスの最高傑作として名高い「ラス・メニーナス」は、マルガリータ王女が5歳の時の宮廷の様子を描いたものであるが、製作されたのは13年後の1656年である。
1644年、イサベルが死去すると、1646年にはオーストリア・ハプスブルク家の皇女マリアと婚約していたバルタサール王太子も天然痘で亡くなってしまう。
ベラスケスの最高傑作として名高い「ラス・メニーナス」は、マルガリータ王女が5歳の時の宮廷の様子を描いたものであるが、製作されたのは13年後の1656年である。
1644年、イサベルが死去すると、1646年にはオーストリア・ハプスブルク家の皇女マリアと婚約していたバルタサール王太子も天然痘で亡くなってしまう。

喪に服すマルガリータ王女 - ベラスケス
上図のように王女の部分だけアップで引用されることが多いが、「ラス・メニーナス」の全体を見ると、なんとなく陰気で、登場人物の仕草も怪しい――スペイン・ハプスブルク家の凋落を表しているようだ。

同じ頃、フランスでは、ルイ14世は5歳で即位した。1653年、宰相マザランの補佐でフロンドの乱を鎮圧した。1659年、マザランはマルガリータ王女を妃に指名し、1660年に結婚。1661年、親政を開始した。ルイ14世は典型的な絶対主義の国王で、自らを「朕は国家なり」と豪語した。

同じ頃、フランスでは、ルイ14世は5歳で即位した。1653年、宰相マザランの補佐でフロンドの乱を鎮圧した。1659年、マザランはマルガリータ王女を妃に指名し、1660年に結婚。1661年、親政を開始した。ルイ14世は典型的な絶対主義の国王で、自らを「朕は国家なり」と豪語した。

カルロス2世の肖像画 - ベラスケス
同じ年、フェリペ4世は2番目の王妃マリアナとの間に、最後の子どもとなるカルロスをもうけた。1665年、フェリペ4世が死去すると、カルロス2世として即位した。

カルロス2世は、重い身体障害と知的障害に苛まれており、摂政を務めた母マリアナが追放されると、国政は混乱した。この頃、オルレアン公フィリップ1世(ルイ14世の弟)の娘マリアと結婚するが、ついに子どももうけることができなかった。

カルロス2世は、重い身体障害と知的障害に苛まれており、摂政を務めた母マリアナが追放されると、国政は混乱した。この頃、オルレアン公フィリップ1世(ルイ14世の弟)の娘マリアと結婚するが、ついに子どももうけることができなかった。

レオポルト1世 - ブロック

フェリペ5世
1700年10月、カルロス2世の遺言書で後継に指名されたのは、フランス王位継承権を放棄することを条件に、ルイ14世とマルガリータ王女の長男ルイの次男アンジュー公フィリップに決まった。
カルロス2世が死去すると、1701年2月、フィリップはマドリードに入城してスペイン王フェリペ5世に即位した。
ところが、フェリペ5世はフランスの王継承権を放棄しなかった。また、フェリペ5世はアメリカにおける黒人奴隷貿易の独占権をフランスの貿易会社に与えるという便宜供与を行った。これに対してイギリス・オランダが強く反発、神聖ローマ皇帝も加えて対仏大同盟(ハーグ条約)を結成してフランスに宣戦布告、ここにスペイン継承戦争が始まった。
カルロス2世が死去すると、1701年2月、フィリップはマドリードに入城してスペイン王フェリペ5世に即位した。
ところが、フェリペ5世はフランスの王継承権を放棄しなかった。また、フェリペ5世はアメリカにおける黒人奴隷貿易の独占権をフランスの貿易会社に与えるという便宜供与を行った。これに対してイギリス・オランダが強く反発、神聖ローマ皇帝も加えて対仏大同盟(ハーグ条約)を結成してフランスに宣戦布告、ここにスペイン継承戦争が始まった。
フランスは強大な軍事力を背景に、当初は優位に戦った。しかし、国内ではプロテスタントの武装蜂起があり、1704年にイギリスがジブラルタルを占領した。プロヴァンス地方やフランドルでも敗北し、1709~10年には飢饉に悩まされるようになった。また、アメリカ植民地でもイギリス・フランス間のアン女王戦争が展開され、次第に劣勢となっていった。

1711年、神聖ローマ皇帝ヨーゼフ1世が急死した。弟がカール6世として帝位に就くことになったが、もしスペイン王位も継承すれば、かつてのカール5世のようにヨーロッパで強大な権力が生まれることになり、列国のバランスが崩れる。
そこで各国はフェリペ5世をスペイン王と認めることに傾き、1712年7月に休戦した。
この後ナポレオンに征服されるまで、スペインはブルボン朝による支配を受けることになる。

ルイ14世の時代、それまで活動を停止していたフランス東インド会社が再興され、インドに進出したフランスはイギリスと争うようになる。また、北米の植民地でもイギリスと衝突した。ブルボン朝の時代、フランスとイギリスは第二次百年戦争ともいうべき対立状態にあった。

1711年、神聖ローマ皇帝ヨーゼフ1世が急死した。弟がカール6世として帝位に就くことになったが、もしスペイン王位も継承すれば、かつてのカール5世のようにヨーロッパで強大な権力が生まれることになり、列国のバランスが崩れる。
そこで各国はフェリペ5世をスペイン王と認めることに傾き、1712年7月に休戦した。
この後ナポレオンに征服されるまで、スペインはブルボン朝による支配を受けることになる。

ルイ14世の時代、それまで活動を停止していたフランス東インド会社が再興され、インドに進出したフランスはイギリスと争うようになる。また、北米の植民地でもイギリスと衝突した。ブルボン朝の時代、フランスとイギリスは第二次百年戦争ともいうべき対立状態にあった。
アン女王戦争
スペイン継承戦争に呼応し、北米大陸では1702年、アン女王戦争が勃発する。フランス・スペイン連合軍とイギリス(イングランド王国)の植民地戦争で、当時、イギリスを統治していたアン女王にちなんで名付けられた。

すでに立憲君主制を確立していたイギリスは、スペイン継承戦争における王位・帝位には関心が薄く、純粋に国益に基づいて戦争を遂行した。
ユトレヒト条約によりイギリスは、スペインの奴隷貿易に参入できる、スペインからジブラルタル及びメノルカ島を譲渡される、フランスから北米アカディアとニューファンドランド島、ハドソン湾地方を譲渡されるなどの有利な条件を引き出し、大英帝国の基礎を築いた。

すでに立憲君主制を確立していたイギリスは、スペイン継承戦争における王位・帝位には関心が薄く、純粋に国益に基づいて戦争を遂行した。
ユトレヒト条約によりイギリスは、スペインの奴隷貿易に参入できる、スペインからジブラルタル及びメノルカ島を譲渡される、フランスから北米アカディアとニューファンドランド島、ハドソン湾地方を譲渡されるなどの有利な条件を引き出し、大英帝国の基礎を築いた。
この時代の世界
(この項おわり)
1713年、ユトレヒト条約によって講和が結ばれ、スペインとフランスが永久に合併しないことを条件にフェリペ5世のスペイン王位継承が承認された。
ユトレヒト条約は、ブルボン朝フランスの力を抑え、その他のヨーロッパ諸国の勢力均衡を維持することにあった。実際、ナポレオンが台頭するまで、この状況が保たれることになる。
なお、フランスと神聖ローマ皇帝の間には、1714年、別個の講和条約が結ばれ、ラシュタット条約を呼ばれている。