
徳川吉宗
吉宗は新田開発を推し進める一方、大名に1万石について100石の米を差し出させる「上米」を行い、税収を安定させた。

また、目安箱を設置し、町人や百姓などの要望や不満に将軍が目を通すという形をとった。その結果、貧民の窮状を救うための小石川養生所が設立されたり、江戸の防火を担う町火消しが整備された。

しかし、財政再建や物価対策を急ぐあまり幕政は混乱し、とくに1728年に年貢を引き上げたことから、農民への負担が増加した。結果的に人口増加にブレーキがかかり、一揆が増えた。1745年、吉宗が大御所に退き、家重が9代将軍となった時点をもって、享保の改革は終了したとされる。

また、目安箱を設置し、町人や百姓などの要望や不満に将軍が目を通すという形をとった。その結果、貧民の窮状を救うための小石川養生所が設立されたり、江戸の防火を担う町火消しが整備された。

しかし、財政再建や物価対策を急ぐあまり幕政は混乱し、とくに1728年に年貢を引き上げたことから、農民への負担が増加した。結果的に人口増加にブレーキがかかり、一揆が増えた。1745年、吉宗が大御所に退き、家重が9代将軍となった時点をもって、享保の改革は終了したとされる。
江戸時代の三大改革
この時代の世界
(この項おわり)
5代将軍・綱吉以来、傾いた幕府の財政を立て直すため、吉宗は、質素倹約を勧め、贅沢な暮らしを取り締まった。これが享保の改革である。