西暦1453年 - 百年戦争おわる

英仏の中央集権化が加速
シャルル7世の戴冠式におけるジャンヌ・ダルク
イギリスとフランスは、毛織物のフランドル地方やワインのギュイエンヌ地方をめぐって対立することになる。そんな中、エドワード3世は、母イザベラがカペー朝の出身であることを理由にフランス王フィリップ6世に対して王位継承を主張し、1339年、フランスに侵攻した。百年戦争のはじまりである。
イギリスは、1346年のクレシーの戦い、1356年のポワティエの戦いといった緒戦に勝利した。1348年頃からペスト(黒死病)が流行し、ヨーロッパの人口の3分の1が病死するという状況に陥り、戦争は長期化した。
敗戦によって領土を失ったフランスは、慢性的な財政難に対処するため、シャルル5世が税制を整備した。そして、シャルル5世は満を持して1369年から反攻を開始する。
そんな中、「フランスを救え」という神のお告げを聞いたという17歳の少女、ジャンヌ・ダルクがあらわれる。1429年、ジャンヌはオルレアンの包囲を解いてフランスを救う。
その後、フランス軍は勢いづき、1453年、ドーバー海峡を望むカレーの町を除いた国土を回復し、イギリスに勝利して戦争は終結する。

なお、ジャンヌは1431年にイギリス軍に捕らえられ、魔女としてルーアンで処刑された。
この戦いでは、イスラム世界から伝わった火薬による鉄砲や大砲が威力を発揮し、旧来の騎士は没落していった。その結果、フランスではヴァロワ朝シャルル7世により中央集権化に拍車がかかる。
一方のイギリスは、1455年、バラ戦争に突入し、テューダー朝の絶対王政へと向かっていく。
東ヨーロッパでは、1453年、オスマン帝国がコンスタンティノープルを占領し、東ローマ帝国が滅亡する。この難を逃れたギリシア人の古典学者がイタリアに逃れ、イタリアの都市国家がイスラーム文化と接触し、ルネサンスの興隆に大きな役割を果たした。

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(この項おわり)
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