原爆ドームは世界遺産

2006年7月24日・2019年12月31日 撮影
広島原爆ドーム
2006年7月24日 撮影
原爆ドーム(広島県広島市中区大手町1-10)は地上3階(一部5階)で、テレビで見るような威圧感はない、こぢんまりとした建造物だ。
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広島原爆ドーム
2019年12月31日 撮影
見るからに崩れ落ちそうな廃墟を、長年にわたる風化や地震から守り、よくもここまで持ちこたえさせたものだと感心する。
広島市は2015年(平成27年)8月に催す被爆70年の平和記念式典後、初の耐震補強工事をする方針だ。
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原爆ドームの設計者レツルと宮島

広島原爆ドーム
2019年12月31日 撮影
原爆ドームの前身である広島県産業奨励館を設計したのは、チェコ人の建築家 [
ヤン・レッツェル:wikipedia]である。1915年(大正4年)4月5日の竣工から100年を超えた。
レツルは日本に高い関心をもっており、オリエンタルホテルや聖心女子学院校舎などを設計した後、広島県産業奨励館の設計に着手。1915年(大正4年)に竣工した。
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広島原爆ドーム
2019年12月31日 撮影
翌1916年(大正5年)に帰国し、1918年(大正7年)に再来日。1925年(大正14年)に45歳という若さで世を去った。
レツルが設計した建物は、原爆ドームなど一部を除き、そのほとんどが震災や戦火で消失してしまった。その原因は建物の脆弱性にあったと考えられている。
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広島原爆ドーム
2019年12月31日 撮影
原爆ドームは煉瓦を積み上げただけの脆い構造だ。地震の少ないチェコ出身のレツルにとって、耐震性という点まで配慮できなかったのだろう。
もし原爆による爆風が横から襲っていたら、原形をとどめないほどに崩壊してしまったと考えられている。戦後、二度にわたる補強・保存工事が行われたが、大変な苦労だったという。
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広島原爆ドーム
2019年12月31日 撮影
煉瓦造りと言いえば東京駅であるが、レツルは東京ステイション・ホテルの内装も担当したらしい。記録には「ドイツ人のレツケル」となっているが、レツルの誤記ではないかと考えられている。
この内装も現存しておらず、残念ながら確認する手立てはない。
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広島原爆ドーム
2019年12月31日 撮影
レツルは、奨励館を設計する前に、同じ広島県内の宮島ホテルを設計している。1952年(昭和27年)に火災で焼失してしまったが、宮島(厳島)は、原爆ドームと同じ1996年(平成8年)に世界遺産に登録された。不思議な巡り合わせである。
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交通アクセス

原爆ドームへのアクセスは、広島市電・原爆ドーム前が便利だ。

20年ほど前に一度訪れたことがあるのだが、ドーム部分の鉄骨は淡いピンク色で塗り直されており、内部から外壁を支える鉄柱が張り巡らされていた。
ただ煉瓦を積み重ねただけの原爆ドームを守るには、たいへんな労力と資金がいる。

通常、原爆ドーム内には立ち入ることはできないが、2011年(平成23年)8月、Googleストリートビューで360度眺めることが可能になった。数え切れないほどの煉瓦が転がっており、原爆の破壊力の凄まじさがひしひしと伝わってくる。
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広島と長崎

1945年(昭和20年)8月6日午前8時15分、史上初の原子爆弾「リトルボーイ」が広島県産業奨励館の南東約150メートル地点の上空約580メートルで爆発した。建物は大破、全焼し、館内にいた約30人は即死であった。その廃墟は原爆ドームとして、現代に姿をとどめている。

この3日後の8月9日に被爆した長崎では、必死の救命活動を続けた永井隆医師が「原子爆弾が浦上に落ちたのは大きな御摂理で、神の恵みであることに感謝を捧げねばならぬ」と弔辞を述べている。医学者でありキリスト者でもあった永井の悲壮感が漂う。
原爆症は、現代医学をもってしても治療できない病である。

1996年(平成8年)、原爆ドームは世界遺産に登録されるが、翌年、前長崎市長の本島等 (もとじまひとし) 氏は、広島平和教育研究所が発行した『平和教育研究年報』に「広島よ、おごるなかれ 原爆ドームの世界遺産化に思う」という論文を寄せた。本島氏はこの中で「私は、この記事(原爆ドームが世界遺産に登録された記事)を新聞で見て日本のエゴが見えて悲しさと同時に腹が立った」と述べた。
本島氏は敬虔なクリスチャンとして知られているが、長島市長を務めていた1988年(昭和63年)、市議会本会議で「天皇に戦争責任はあると思う」と発言し、2年後、右翼団体の男に狙撃され重傷を負ったのだった。
それにしても、同じ国内の、同じ被爆都市である広島と長崎で、ここまで違うものなのか――あらためて戦後処理の難しさを感じる。
太平洋戦争では多くの血が流れすぎた。
広島原爆 関連

核兵器の威力

歴史的に見て、戦争が外交の最終手段である以上、避けて通ることはできない。人類が感情を超えた“悟り”の境地に達することができない限り、戦争は無くならないだろう。
ゆえに、国民感情に訴えて平和を唱えることは、国民感情に訴えて太平洋戦争を突き進んだ当時と同じ方法論を踏襲しているに過ぎず、そのやり方はナンセンスと言わざるを得ない。

しかし、戦争が外交手段である以上、核兵器の存在もまたナンセンスである。
広島原爆(リトルボーイ)には約50キログラムのウラン235が搭載されており、このうち核分裂を起こしたのは1キログラム程度と推定されている。爆発で放出されたエネルギーは、TNT火薬換算で15キロトン(1万5千トン)だ。東京大空襲(1945年3月10日)では、TNT火薬2キロトン相当の焼夷弾が投下されたと推定されている。その8倍近いエネルギーが、東京の10分の1以下の面積に一気に放出された計算になる。
その結果、爆心地の温度は3~4千度に達し、音速を超える爆風を発生させ、その圧力は1平方メートルあたり35トンに及んだ。木造建築物は自己発火するか爆風で吹き飛ばされた。鉄筋建築であった産業奨励館(原爆ドーム)ですら、爆風がほぼ垂直から襲ってきたことと、窓が多く爆風が吹き抜けたことにより、辛うじて全壊を免れた。
15キロトンで、この有様である。現代のピンポイント核兵器は10キロトン前後の破壊力といわれているから、本当にピンポイント攻撃できるのかどうか怪しい限りである。
さらに、冷戦時代に米ソが競って開発した核兵器はTNT火薬で1メガトンを超える。水爆に至っては60メガトンに達する。これは広島原爆の4千倍の威力であり、第二次世界大戦で使われたすべての火薬の20倍に達すると言われている。
こんなエネルギーが一気に解放されたら、全面降伏どころか、敵を殲滅させてしまう。
その国土も荒れ果ててしまうだろう。こんな兵器を使ったが最後、せっかく用意しておいた戦後のシナリオが灰燼に帰してしまうに違いない。戦争終結の手段としては使えないのだ。
こんな強力な兵器は手段として利用することができない。使うことができないのなら、戦争抑止力になるわけがない。つまり、核兵器の存在そのものがナンセンスなのである。
にもかかわらず核兵器を温存し続ける国があることは、ヒトがいかにナンセンスな存在であるかを証明している。

福島第一原発事故との比較

広島原爆に搭載されていた約50キログラムのウラン235のうち、実際に核分裂を起こしたのは1キログラム程度だったと推測されている。放射能の量としては約100兆ベクレルとなる。

一方、2011年(平成23年)3月11日の東日本大震災に伴い深刻な事故を起こした東京電力福島第一原子力発電所の場合、毎時2000兆ベクレルの放射能が大気中に放出された。1時間で広島原爆20個分の放射能! これがいかに悲惨な事故であるかは、言うまでも無いだろう。
ちなみに、7月19日の時点でも毎時10億ベクレルの放出が続いている。

戦争と平和

さて、小学生向けの国語問題集や、社会人向けの漢字常識問題集を見ると、かならず「戦争」の反対語を問う問題がある――正答は「平和」である。

これはナンセンスな問題と言わざるを得ない。
戦争は手段であり、平和は状態をあらわす言葉である。ヒトは戦争を始めることもできれば、終わらせることもできる。一方、平和はそういう性質のものではない。戦争が無くても、旱魃・飢饉・自然災害によって平和は乱される。ヒトは平和をコントロールすることができないのだ。

このように性質の違う言葉を反対語として位置づけている出題者の論理的能力に疑問を抱くとともに、これを受け入れてしまっている自分たちの常識について一度、棚卸しておく必要がある。不良在庫は処分しておこう(笑)。

世界遺産への登録

1996年(平成8年)、原爆ドームは世界遺産に登録された。その際、アメリカや中国から反対があった。
中国は「今回の広島の登録は、たとえ登録条件に当てはまるとしても、多くの人々の安全保障を脅かす恐れがある」と棄権。アメリカもまた棄権し、「ドームは反人道性の象徴ではあると思うが、世界遺産には似合わない」というコメントを残している。
戦勝国は戦勝国の想いがあるのだろう。

世界遺産には文化遺産のカテゴリに登録されており、正式名称は「広島平和記念碑(原爆ドーム)」――英語名は "Hiroshima Peace Memorial (Genbaku Dome)"。原爆 の2文字がしっかりと登録されている。

国民保護計画と核兵器

2004年(平成16年)9月に施行された国民保護法に基づく国民保護計画を作るために広島市が設けた「核兵器攻撃被害想定専門部会」が2007年(平成19年)10月31日にまとめた報告書によると、1メガトンの水爆が原爆ドーム付近の上空2400メートルで爆発した場合、死者は37万2000人、負傷者は46万人に上ると推計している。
また、62年前と同規模の原爆が上空で爆発した場合、直後の死者は6万6000人、負傷者は20万5000人。建物の多くが木造から鉄筋コンクリートに変わったため、初期の放射線や熱線は遮られ、倒壊による圧死なども減るとみられる。しかし、放射線被爆者は約15万5000人、白血病やがんを発症する人も約1万3000人に達すると推計した。
核被害を具体的に想定したのは全国初で、「核攻撃から市民を守るには核兵器の廃絶しかない」と結論づけている。

エノラ・ゲイ機長の死

2007年(平成19年)11月1日、広島に原爆を投下したB29爆撃機「エノラ・ゲイ」の機長だったポール・ティベッツが、米オハイオ州コロンバスの自宅で、老衰のため死去した。92歳だった。エノラ・ゲイは、彼の母親エノラ・ゲイ・ティベッツからとったものだ。
アメリカの最も有名なパイロットであり、晩年になっても、「広島、長崎への原爆投下は戦争終結のために必要だった」、「今も全く後悔はない」と語っていた。しかし、原爆投下に批判的な人々の抗議活動を恐れて葬儀や墓石を希望せず、遺灰を海にまいて欲しいと言い残したという。

思うに、祖国の英雄となったポール・ティベッツは、最後まで心の内を明かすことができなかったのではないだろうか。合掌。

2014年(平成26年)7月30日、「エノラ・ゲイ」が広島に原爆を投下した際の搭乗員の中で、存命する最後の1人だったセオドア・バン・カーク氏が、米ジョージア州で死去した。93歳。

原水爆実験の映像をネットで見る

1945年(昭和20年)から1962年にかけてアメリカ軍が実施した原水爆実験を、極秘裏に映像や写真で記録していたカメラマンたちの部隊がいたという。

1963年(昭和38年)以降すべての核実験が地下で行われるようになり、撮影チームは解散した。その後、クリントン政権下で記録映像の機密指定を解除する作業が進められ、現在、6500本あるという核実験の記録映像のうち約100本がエネルギー庁により公開されている(一時期ネットに無償公開されていた)。
まるでSFやアニメで見るような映像ばかりである。

冷戦中に原水爆の開発に携わった科学者たちの多くが名声を得たのに対し、命がけでそれを記録したカメラマンたちは決して表舞台に出ることはなく、機密を保持したまま多くが亡くなっていったとのこと。

参考書籍

表紙 原爆ドーム
著者 朝日新聞社
出版社 朝日新聞出版
サイズ 文庫
発売日 1998年07月
価格 638円(税込)
ISBN 9784022612359
アウシュヴィッツに次いで「負の遺産」として1996年、世界遺産に登録された原爆ドーム。登録にいたるドキュメントを中心に、誕生から被爆までの歴史、知られざる設計者の一生、普段見ることのできない建物内部から撮影された写真など、ドームのすべてを徹底取材。広島を訪れる際に必携の一冊。
 
表紙 思考停止社会
著者 郷原 信郎
出版社 講談社
サイズ 新書
発売日 2009年02月19日頃
価格 924円(税込)
ISBN 9784062879781
建築不況、食品偽装、市場混乱、メディアスクラム、裁判員制度……。日本停滞の背景には「法令遵守」からさらに進む、なんでも「遵守」の害があった! コンプライアンスの第一人者が問題を鋭く指摘、解決策を示す。(講談社現代新書) 2007年1月、『「法令遵守」が日本を滅ぼす』で、社会や経済の実態と乖離した法令の「遵守」による弊害に警鐘を鳴らし、大きな話題を呼んだ著者による待望の新書第2弾。 あれから2年、日本社会の状況は一層深刻化、「遵守」がもたらす「思考停止」の弊害がさらに拡大。「法令違反」だけではなく、「偽装」「隠蔽」「捏造」「改ざん」などのレッテルを貼られると、一切の弁解・反論が許されず、実態の検証もないまま、強烈なバッシングが始まる。 ○消費期限切れ原料使用を作為的に隠蔽しようとしたわけでもないのに、「隠蔽」と決めつけられ、存亡の危機に立たされた不二家 ○健康被害とはまったく無関係なレベルのシアン化合物の食品製造用水への混入を公表させられ、大量の商品の自主回収に追い込まれた伊藤ハム ○「耐震偽装」を叩くことに関心が集中、偽装の再発防止のための建築基準法改正で住宅着工がストップ、深刻な不況に見舞われた建築業界 ○刑事司法を崩壊させかねない大問題を抱えているのに、誰も止められない裁判員制度 ○経済司法の貧困により、秩序の悪化に歯止めのかからない市場経済 ○何を意味するのか不明確なまま「年金記録の改ざん」バッシングがエスカレート、厚労大臣にまで「組織ぐるみで改ざん」と決めつけられた社会保険庁 調査委員会などで多くの「不祥事」に関わった著者が、問題の本質に斬り込み、「遵守」による「思考停止」で生じている誤解の中身を明らかにします。その上で、思考停止から脱却して「真の法治社会」を作るための方策を示します。 是非ご一読ください。 第1章 食の「偽装」「隠蔽」に見る思考停止 第2章 「強度偽装」「データ捏造」をめぐる思考停止 第3章 市場経済の混乱を招く経済司法の思考停止 第4章 司法への市民参加をめぐる思考停止 第5章 厚生年金記録の「改ざん」問題をめぐる思考停止 第6章 思考停止するマスメディア 第7章 「遵守」はなぜ思考停止につながるのか 終章 思考停止から脱却して真の法治社会を
 
表紙 ヒロシマ・ノート
著者 大江 健三郎
出版社 岩波書店
サイズ 新書
発売日 1965年06月21日頃
価格 902円(税込)
ISBN 9784004150275
プロローグ  広島へ…… 1   広島への最初の旅 2   広島再訪 3   モラリストの広島 4   人間の威厳について 5   屈伏しない人々 6   ひとりの正統的な人間 7   広島へのさまざまな旅 エピローグ  広島から……
 

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