復原した東京駅と十河信二の碑

2012年12月23日・2014年11月28日 撮影
復原した東京駅
2012年12月13日 写真:こぱふぅ
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駅舎の前にそびえる高さ約13メートルの換気塔2基だが、2013年(平成25年)10月、約4メートルに切り下げる工事が進んでいる。
この換気塔は総武線と横須賀線の地下ホームを地上とつなぐ大事な施設だが、「観光名所の景観を損なう」との声があったため、換気塔の機能が損なわないように工事を進めている。
丸の内北口にある換気塔は年内に、南口は来年2月ごろまでに切り下げ工事を終える。。色もクリーム色から灰色に塗り直して目立たなくし、「首都の玄関口」の魅力を高める。

目次

復原した東京駅
2012年12月13日 写真:こぱふぅ
復原した東京駅
復原した東京駅
2014年11月28日 写真:パパぱふぅ
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復原した東京駅
2014年11月28日 写真:パパぱふぅ
東京駅(東京都千代田区丸の内1−9−1)は、1914年(大正3年)12月20日に開業した。2003年(平成15年)に国の重要文化財に指定されており、関東の駅百選認定駅でもある。
2007年(平成19年)4月から2012年(平成24年)6月まで、開業当時の姿に戻す復原工事が進められ、ようやく完成した。
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復原した東京駅
2014年11月28日 写真:パパぱふぅ
1889年(明治22年)、国鉄の東海道本線の新橋~神戸間が全線開通した。一方、私鉄の日本鉄道が、上野を始発として青森に向けて線路を建設していた。
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復原した東京駅
2014年11月28日 写真:パパぱふぅ
そこで、新橋と上野を結ぶ高架鉄道の建設が東京市区改正計画によって立案され、1896年(明治29年)の第9回帝国議会でこの新線の途中に中央停車場を建設する事が可決された。

実際の建設は日清戦争日露戦争の影響で遅れ、工事は戦争終了後の1908年(明治41年)からようやく本格化。1914年(大正3年)12月18日に開業し、「東京駅」と命名された。
東京駅の位置は皇居の正面に設定され、皇居前広場からまっすぐ進めば丸の内口の中央貴賓出入口に到達する。

駅舎の設計は、当初はドイツのフランツ・バルツァーに委託された。しかし、和風の駅舎は当時の日本には受け入れられなかった。鉄道博物館の奥原哲志・学芸員は「西洋文化に近づこうとしていた当時の日本人には、受け入れがたいデザインだった」と語る。
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復原した東京駅
2014年11月28日 写真:パパぱふぅ
後任に、日本銀行本店も手がけた建築家の辰野金吾が就き、8年がかかりで設計し直した。
鉄筋レンガ造り3階建て総建坪9,545平方メートルの豪壮華麗な建築物で、皇居に向いた丸の内側に建設されることになった。
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建設予算は65万円から250万円に膨らみ、1908年(明治41年)に初代鉄道院総裁に就任した後藤新平の大風呂敷だと揶揄された。しかし、後藤が総裁に就任したのは設計が終わった後のことであった。

竣工検査に際して、当時どのような工事においても必ず欠陥を見出すということで知られ恐れられもした鬼会計検査官がいた。彼は勇躍この竣工検査に臨み、すみからすみまで精査をかさねたが、ついに何一つ見出すことができず、「こんなことは、私の長い検査生涯で初めてのこと」と言わしめたという。

関東大震災は持ちこたえたが、1945年(昭和20年)の空襲で、屋根や内装を焼失した。戦後の応急処置で、3階建てが2階建てに、南北のドーム屋根も八角形に変わった。
1958年(昭和33年)、当時の国鉄総裁。十河 (そごう) 信二は、東京駅の高層化を計画したが実現しなかった。1987年(昭和62年)の二度目の計画も挫折。
2012年(平成24年)現在、在来線が地上5面10線と地下4面8線の合計9面18線、新幹線が地上5面10線、地下鉄は地下1面2線を有しており、面積は東京ドーム約3.6個分に相当する。

保存・復原活動

東京駅の高層ビル化が浮上したのは1987年(昭和62年)のことだった。
当時、丸の内のオフィスで働いており、夕方になると西日を浴びてピンク色に輝く駅舎が好きだった多児 (たに) 貞子さん(当時41歳)は、「赤レンガの東京駅を愛する市民の会」を立ち上げる。
以前から東京駅の取り壊しの話はあったが、保存するには建設当初の姿に戻し歴史的価値を高めることが必要と考え、署名活動を開始。1988年(昭和63年)5月までに、全国約10万人の署名を衆参両院に提出した。

当時設備課長だった叶篤彦 (かのうあつひこ) さん(当時41歳)は「ハードルの高さは知っていたので複雑な気分だった。でも、駅を愛してくれる思いがうれしかった」と語る。また、当時の東京駅長・木下秀彰さん(当時54歳)も「どれだけ復元への支えになったか」と振り返る。

だが、動きは遅々として進まなかった。
1990年(平成2年)2月14日、会員らはバレンタインのチョコレートを木下さんや後に社長になる松田昌士常務(当時)らに贈った。訪問の口実づくりだったが、チョコは毎年恒例となった。
1999年(平成11年)10月、ついに東京都とJRが復元、保存に合意した。総事業費約500億円だった。

赤レンガの東京駅を愛する市民の会は結成からちょうど27年を迎える2014年(平成26年)12月、解散した。
多児さんは、駅舎にカメラを向ける観光客をみるたび、うれしくなる。「この姿を残せてよかった。肩の荷がおりました」。

戦前の駅舎を知る松丸道雄・東京大学名誉教授は、「空襲で焼け落ちる前の屋根は、一部が鮮やかな緑色だった」と振り返る。復原工事後の銅板は真新しく、暗い赤である。だが、時が経てば酸化で緑色に変色する。
「いつかこの赤も緑色になるのでしょうね。その時、懐かしむ人はいないでしょうけれど」と語る。

新幹線だけで1日500本

2015年(平成27年)3月14日、北陸新幹線が延伸開業したことにより、東京駅のホームに発着する新幹線の種類、本数が一段と増えた。
列車の種類は16種類、本数は通常ダイヤだけで1日470本、臨時列車を加えると500本を超える。それを5つのホームの10本でまかなうから大変だ。

フランクフルト中央駅と姉妹駅に

2015年(平成27年)9月、ドイツ西部にあるフランクフルト中央駅が姉妹駅となった。
姉妹駅は、アムステルダム中央駅(オランダ)、グランドセントラル駅(米国)、新竹駅(台湾)に次いで4駅目。

フランクフルト中央駅は1888年(明治21年)開業。1日の利用者は東京駅より3万人多い約45万人で、100年以上が経過する歴史的な建築物で多方面の起点となるなど、東京駅と共通点が多いとして、運営するドイツ鉄道から提案があったとのこと。

東京駅の変遷

東京駅(2000年)
2000年12月10日 撮影
2000年の東京駅のようす。

2003年(平成15年)、国の重要文化財の指定を受ける。
東京駅(2005年)
2005年12月30日 撮影
2005年の東京駅のようす。
東京駅(2011年)
2011年1月7日 撮影
2011年の東京駅のようす。

十河信二の碑

十河信二の碑
2014年8月11日 撮影
東海道新幹線18,19番線ホームの新大阪寄りには、元国鉄総裁の十河信二 (そごうしんじ) の碑がある。十河は1955年(昭和30年)から1963年まで国鉄総裁を務め、新幹線建設のための資金集めに奔走したことから、「新幹線の父」と呼ばれている。
十河信二の碑の大きな写真大きな写真
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石碑は1973年(昭和48年)に建立され、十河の座右の銘「一花開天下春」(一輪の花が開いて、天下の春の訪れを知る)が刻まれた。鉄道総研の理事長室にも同じ言葉が掲げられている。

東京駅地下は水没している

東京駅周辺の地下には水があふれている。

JR横須賀線・東京-品川間の大半が地下トンネルで、コンクリート外壁の隙間から出てくる地下水を計7カ所の排水所で地表面へ排出している。2015年(平成27年)12月6日、このうち有楽町排水所にトラブルが起こり、線路が冠水、横須賀線が12時間半にわたってストップするという事故に見舞われた。

戦前から戦後にかけ、東京近辺では工業用水として地下水を大量に使用し地盤が沈下した。そこで昭和30年代以降、都条例などで地下水の使用が規制された。
その結果、地下水は徐々に回復したのだが、それ以前に造られた地下施設では地下水の回復は想定外のことだった。
たとえば、東京駅地下5階にある総武線ホームでは、ホームが地下水の浮力で浮かび上がらないよう、2000年(平成12年)に130本のアンカーボルトを打ち込む補強工事を行った。

JR横須賀線の地下トンネルは地下35メートルを走っているが、線路にたまった水は排水溝から5メートル下の貯水槽へ流れる。貯水槽に4メートルの水がたまると排水ポンプが作動し、地表面へ水を送り出すようになっている。ところが今回、ポンプの水を取り込む部分に泥が詰まり、吸引力が大幅に低下。排水しきれなかった地下水が貯水槽にたまり、線路より上の水位に達することで線路はレール面から約10センチ上まで浸水し、約70メートルが冠水してしまった。
JR東日本は排水設備を2カ月に1回点検しているが、きちんと点検やメンテナンスが行われたのか疑問が残ると指摘する有識者もいる。

東京駅周辺の地下水問題は、これからも続くだろう。
東京駅 関連

参考書籍

鉄道とともに発展した“帝都”東京の歴史を知ることができる1冊である。明治初期のお雇い外国人の活躍や、いまも残る神田近辺の高架線の赤煉瓦の成り立ちなど、ふだん乗り慣れているインフラの歴史を感じることができた。

意外なことだが、東京駅が開業したのは明治末期、山手線環状運転がはじまるのは大正末期のことである。開業当時の東京駅の乗降客は1日80人ほどで、人通りの疎らな街だったようだ。それが、関東大震災を経て、大東京が西へ発展するにしたがって、現在のような巨大なターミナル駅へと変貌していく。
ヨーロッパ諸国のような都市計画もなく、大阪のように道路整備することもなく、“帝都”東京が発展したのは、紛れもなく鉄道のおかげである。

現在、首都圏の環境問題に注目が集まっているが、鉄道に再びスポットライトを当ててみてはどうだろうか。
表紙 東京駅はこうして誕生した
著者 林章
出版社 ウェッジ
サイズ 全集・双書
発売日 2007年01月
価格 1,540円(税込)
ISBN 9784900594982
一つの建造物が都市をつくった。東京という巨大都市をー。大隈重信が予言したように、東京駅を中心に鉄路は放射状に延び、近代都市・東京を形成した。だが実は、東京駅は最初につくられた駅ではなかった。埋もれ、忘れられた過去を発掘し、東京駅の始原の姿を復元する百年の物語。
 
東京駅が開業したのは1914年(大正3年)12月20日と、意外に新しい。それまで2年半にわたって中央線のターミナル駅の座にあったのが旧・万世橋駅である。ここから新橋に至る赤煉瓦アーチは、100年近くにわたって首都の大動脈を支えており、当時の技術者の苦労を思わずにはいられない。

本書は、東京の鉄道の成り立ち、そして万世橋の最期まで、その史実を整理したものである。とくに、中央線の新宿~御茶ノ水間が、江戸城の見附(関門)をベースにしているというのは意外であった。機会があったら、遺物を見に行きたい。
なお、旧・万世橋駅は1943年(昭和18年)11月1日に営業を休止し(廃止ではない)、交通博物館が閉館する際、その遺構を見学することができた。
表紙 幻の東京赤煉瓦駅
著者 中西隆紀
出版社 平凡社
サイズ 新書
発売日 2006年08月
価格 770円(税込)
ISBN 9784582853377
かつて新橋駅・東京駅・万世橋駅の三駅をむすんでいた長大な赤煉瓦のアーチが今も残る。それは日本の首都としての美観と威信の象徴でもあった。人々は駅とともに、語り合い、飲み明かし、鉄路の音に耳を傾けるのであった。膨張する首都・東京の駅と鉄道は、大震災や戦争に耐え、いかなる変遷を辿ったか。
 
後藤新平――明治時代の人。内務省衛生局長、満鉄初代総裁、外務大臣、東京市長を歴任するという傑物だが、なぜか歴史の教科書では影が薄い。関東大震災後の東京再建のための都市計画立案の際に大風呂敷を広げたという話が歴史本に載っていたので、一度、伝記を読んでみようと思い立った。

たいした人物である。もともとは医者であるが、板垣退助が暴漢に襲われた際に治療したり、伊藤博文に意見を具申したり、満州における軍部の拡大を懸念する一方、スターリンの理解を取り付けたり、正力松太郎に読売新聞を買収する資金を貸したり、と。

「理屈をこねまわすよりも活動だ」(109 ページ)をモットーに常に現場の陣頭指揮を執っていた人物なので、伝記といっても話が具体的で分かりやすい。

大風呂敷といっても欧米先進国では当たり前の話を提案していただけで、現代の間尺に合わせれば、驚くような内容ではない。時代を 100 年先取りしていたということになる。

岩手県水沢市(現在は合併して奥州市)の出身ということだが、同郷の政治家として小沢一郎がいる。豪腕を振るう土地柄のようである。
表紙 後藤新平伝
著者 星亮一
出版社 平凡社
サイズ 単行本
発売日 2005年06月
価格 1,980円(税込)
ISBN 9784582832686
奥州水沢に生まれた後藤新平は、薩長藩閥主流の時代にあって、内務省衛生局長から台湾総督府民政長官、満鉄総裁、そして外務大臣から東京市長、東京放送局総裁に至るまで、多彩かつ創造的な活動を繰り広げた。明治から昭和にかけて、その異能と行動力、先進性で日本をリードし、国民に愛された開明政治家の生き方を描く。
 

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(この項おわり)
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